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41Z24P3PHZLふと、テレビを見ていたら教育に関する話などの流れで、「人の痛みがわかる人になれ」というのが出てくることがある。

これが、どうも気になる。自分が子供の頃から、大人たちはそう言ってた。しかし、その頃から僕は疑っている。本当にそれでいいんだろうか?

思いやりを持て、というのならわかる。優しくしなさい、でもいい。

ただ、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、言っている方の自己満足だと思っていた。

自分自身では「他者の痛み」というのは、そうそうわかるものではないだろう、という懐疑もある。

他人を殴った子どもに「あいつの痛みがわかるか!?」と叱っても、「わからないから殴る」わけで、どこか言葉に酔っているように感じる。

心理的な痛みとなると、もう相当にわからない。辛い人に「わかるよ」とか迂闊に言ったら、失礼になるのではないかと思い、よほど経験が類似したいない限り口にはできない。

悩んでいる人の話を聞くことは、仕事もであるし、私的にもある。そういう時に「痛み」そのものがわかることよりも、「どうして痛みを感じるのか」という因果関係を知るようにしている。

もしかすると「痛みがわかる」ことは不可能でも、「痛みに至る構造を理解する」ことは可能だし、それは他者のためになることもあるだろう。

なんで、そんなことが気になったかというと、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、日本の教育に今でもはびこる半端な精神論の象徴のように思うからだ。 >> 「人の痛みがわかるようになれ」への疑問。の続きを読む