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電車に乗っていたら、若い男女が都知事選の話をしていた。

2人とも都知事選に投票するのは初めてのようで、女性はあまり知識がないようだった。大阪の住民投票とは違うのか?みたいなことも言っていて男性が説明するのだが、途中からスマホで調べ始める。段々と話はそれなりに盛り上がっていくわけで、「ものごとを知る過程」を生で見たのは面白かった。

今回の選挙戦は、過去に比べて相当な激戦になりそうだ。保守系分裂が最大の理由だが、こういう場合は党の推した候補が苦杯を舐めることが多い。そして過去を振り返ると、石原信雄や明石康という官僚出身者も、磯村尚徳というニュースキャスターも敗れている。

この辺り、今回はどうなるのか。いずれにせよ、日本の選挙の中でも、相当特異だと思う。

そして、東京都民の特徴として「ネット好き」ということがあって、これが今回の結果に相当影響すると僕は思う。

ヤフーが今春に発表した調査が話題になった。

「日本は2つの国からできている」というタイトルで、検索における東京の特異性を明らかにしたのだ。

クルマよりもタクシーに関する検索が多く、「中学受験」や「フィンテック」に関する検索もやたらと多い。

それはなるほど、と思うのだけれど、個人的に驚いたのはそもそもの検索回数だ。都道府県別に人口当たりの検索数を見るとダントツに多い。東京を100とした指数で、次点の大阪は2/3にも満たない。隣の神奈川は半分程度である。 >> ネットと都民をなめてはいけない理由。の続きを読む



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久しぶりに書店に行った。というくらい、ネットで本を買うことが当たり前になっていたのだが、やはり大型書店に行きたくなったのだ。
きっかけは長野の小布施に行ったこと。葛飾北斎がこの町を訪れたのが80歳を超えてからという話を知って、半信半疑のまま北斎について調べたくなったからだ。
本と言っても、図版を伴うものも多いだろうから、ということで新宿の書店へ行った。
で、結論から言うと何も買わなかった。
美術書のコーナーへ行ったのだが、事前にamazonで調べたよりも点数がないし、本当に探しにくい。理由は簡単で、出版社の全集やシリーズごとに並べられているから「北斎」と言っても、あちこちに飛ぶ。まして新書や文庫となるとフロアすら違う。
で、やっと書店に来なかった理由を思い出した。そう、この苛立ちがストレスになるのだ。
書店の棚割りは、「内容別」ではなく、「形態別」なので、こうなると、もうどうしようもない。
結局、図書館で調べてamazonで購入するということになった。
改めて思ったのだが、リアル書店というのはどんな意味があるのだろう。
この書店も、売りたい本は、いわゆる「多面展開」をしていて、これでもかとばかり場所を占めている。こうして、リアル書店では、売れそうな本ばかりが目立つのでライトユーザはそれでいいかもしれない。ただし、そうすればするほど、総点数は減るわけで、本好きには物足りない。結局ネットで買うと思う。

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(2011年8月19日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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最近、近所の散歩コースで猫の家族と出会う。母と子ども4頭。3頭は母と同じキジトラなのだが、一頭だけが白い。この白い子猫がまた人懐っこいのだけれど、本当に可愛いのだ。
で、書きたいことは全然違うんだけど。
いささか旧聞に属するが(←書いてみるとかなり古くさいな、しかし)、女子サッカーのメンバーの1人の発言がツイッターで流れたことがあった。関わっていたのは大学生だった。adidasの店員の一件とか、他にもサッカー絡みのことはなぜか多いんだけど、こういうニュースを見るたびに思うことがある。
「ああ、若い人もやっぱりマスコミが好きなんだな」
と感じるのだ。たしかに若い人のテレビ視聴時間は短くなっているし、新聞も読まない。それでネットは好きなんだろうけれど、志向性の底には「マスコミ的なモノ」があるように思っている。つまり
・一対多の情報発信で
・「より多くの人に」という量的志向で
・同時性を追求する
と考えると、twitterはマスコミ的な欲求を満たすことはたしかだ。
そもそもインターネットが登場した時は「趣味・嗜好の似たような人が濃密な話ができて、時間拘束が少ない」というのがマスメディアに比べての特性と言われた。初期の掲示板なども、いろいろユニークなものがあったし、面白い個人ページもあった。たとえば、ここなんか結構好きだった。
一方ブログが普及したころから、個人HPはどんどん停滞して、SNSの発達とともに掲示板も減っていく。そこにタレントなんかも参入したあたりから、マスメディア化が着々と進んできたんだろう。

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外で食事をする時、インターネットの情報はあまり見ない。
たしかに平均ポイントは大体の目安をあらわしていると思うが、書いてある文章を見ると「さもしい」感じが漂うからで、もっともこれは実名のサイトだとあまり感じない。
じゃあ、なんで外食評論サイトの文章にこの「さもしさ」が漂うのか。それは、「おいしいものを食べたい」という気持ちより、「損したくない」という気持ちが露骨だからだと思う。
こうした文章、特に不満を述べる人々には共通したところがある。
「前評判に比べて、それほどとは思わなかった」
「~のガイドで★★というのは、過剰評価ではないか」
つまり、こういう人は事前に仕入れた情報との「答え合わせ」をすることに躍起になっている。きっと一皿ごとに答え合わせをしているのだろう。それで本人は満足なのかもしれないが、そのプロセスを読むのは痛々しい。
より満足する消費行動への「手段」としての情報は、増えるばかりである。ところが、この情報は、消費に対する「期待値」を決定する。そして消費の満足は、絶対値で決まるのではなく「期待値との差」で決まるようになってしまった。
これは、外食関連だけではない。ホテルなど宿泊施設の評価や、電器製品の評価まで同じ構造になっている。
「過剰な情報探索は、人を幸福にしないのではないか?」
これは、もう気づいている人が増えているのかもしれない。
たしかに、還暦をすぎた知人でネットも携帯も持っていない夫婦がいるけれど、彼らの生活は十二分に豊かに思えるし、何より情報不足で損をしているようには思えない。
「情報を使いこなすことが良い生活を実現する」という「情報」を発信する人は、「情報」で生計を立てている人である。だから、「情報弱者」は救済されなければならないと言うが、本当にそうなんだろうか。
「情報強者」のはずの人が、レストランで小首をかしげながら食べている。写真を撮っては、「答え合わせ」をネットに書き込む。彼らを救済してあげた方がいいのではないかと、老婆心ながらおもってしまう。