人にとっての、年齢の「節目」はどこにあるのか。
大体の人は、30とか40とかキリのいい数字を思い出すかもしれないし、十進法の呪縛みたいなものとしては、そんな感じだろうか。年男・年女とかもあるけど、まあ10歳刻みなんだろうな。
そんな中で、最近気になるのが「50歳」という節目だ。連載していた記事の関係もあるんだけど、自分自身はもうとっくに超えていて、来年には半ばとなる、
一方で、40代の人との違いも意識するんだけど、それは当人同士の違いというより「親の年の違い」が大きいんじゃないかと感じるようになった。
たとえば、固定電話やファクシミリがまだそれなりに健在だったり、現金主義だったりするのを、「電子化すればいいだろ」と思うのは僕もよくわかる。実際に、自分でそれほど使うわけではない。
ただし、80を超える自分の親世代のことを思い起こすと「そうは言ってもな」という感覚になる。パソコンや携帯も使っているようでいて、どこかに「壁」があるのだ。この辺りの感覚などは、40代の人だとちょっと違うかもしれない。
もっと、大きな差は「親を送ったかどうか」ではないだろうか。同世代と話すと、既にどちらかの親を亡くしているいる人が多い。既婚者で「それぞれの親4人が元気」ということは稀だ。僕の場合は、48歳で父を送っている。
この経験は、大きい。「次は自分の番」であることを否応なく突きつけられる。そして、残った親の老いを目の当たりにしながら、答えのない自問をする。 >> 40代と50代の違いは、「親の年齢の違い」なのだとも思う。の続きを読む
サッカーの本田圭佑選手がNHKの「プロフェッショナル」で語った言葉が話題になっている。人によっては、話題というより「問題」だと思うようで、「ハリルのやるサッカーに全て服従して選ばれていく」ことを否定した発言が引っかかったようだ。
「監督のいうことに従うだけでなく」と言えば、それはトップクラスの選手の普通の考えかもしれない。ただ、「服従」って、普段使うかな?
本田の言葉選びのセンスというよりも、ある種の本音が出たのかもしれない。ただ僕は本田の発言よりも、別の人の言葉にずっとモヤモヤしていたのだけれど、今回の「服従」の一件でなんかいろんなことがわかってきた感じもする。
それはサッカー協会の田嶋幸三会長の「解任発表会見」の言葉だ。
「選手とのコミュニケーション、信頼関係が薄らいできた」という発言を聞いて、ずっと「この人は大丈夫だろうか」と思っていたのだ。
今回改めて分かったんだけど、田嶋氏は「コミュニケーション」という言葉の意味をよくわからず、しかも本人がコミュニケーションをきちんとしていなかったんじゃないか。
コミュニケーションという言葉は、カタカナのまま使われている。それには理由があって、「伝達」だとニュアンスが違う。 >> やっぱりJFA田嶋会長の「コミュニケーション」は謎。の続きを読む
なんか、最近テレビニュースを見なくなった。というか、朝7時からNHK BS-1でやっている「世界のニュース」と、録画して風呂で見るワールドビジネスサテライトくらいか。だから、財務次官の録音も文字のメディアでしか見てない。考えてみれば、秘書に暴言はいた女性議員の録音も聞いたことない。
それで仕事とかに差し支えないかといえば、まったく差し支えない。
財務省の文章改ざんは「そりゃダメだろ」と言うのはわかるけれど、愛媛県の職員の記録あたりから「何が問題なのか」が実はよくわからない。マスコミが「問題にしたがること」と「本当の問題」が決して一致しないことは、大概の人は気づいているだろう。
そして、財務次官と新潟県知事が女性問題で辞任したニュースになると、「何が問題か」は理解できるのだけど、この件について思考したり会話する気がまったくしない。
まあ、僕が会社員だったとして、社長があの次官のような発言をしていたら、「この会社辞めた方がいいかな」と思うはずだ。そういう人がトップになっちゃう組織って、どこか変なんだろうなとはつくづく思う。
そういえば新人で会社に入った時の社長も会長も、大蔵省出身だった。2人とも国税庁長官を務められた方だが、言葉に重みと含蓄があり「何か違うな」と感じたことを覚えている。
ホント、爺の戯言じゃないけど「隔世の感」って、こう言う時に使うんだなと思ったりするわけだ。 >> 最近のニュースと、「なんだかなぁ~」な感じについて。の続きを読む
少し前に、「ミーティングの際にパソコンでメモを取るのはNGか?」のような記事をネットで見た。これって、定期的に湧いて来る話で、僕は紙とパソコンを使い分けている。
どっちがいいというわけではない。
何かのファイルにメモしたい時や、そのまま、形にしたい時はパソコンを使う。
考えをまとめながら、構想を作りたい時は紙にする。
ただ、「パソコンは失礼」という人もいるようで、こうなると、もうよくわからない。そんなこと言ったら、メモだって失礼なんじゃないか。
さて、その一方で大学の講義ではパソコンを使うことは、推奨しない。というか「できれば、やめておけ」と言っている。
ただし「禁止」とは言わない。そういうルールを作ると「自分で考える」という大切なプロセスを学生から奪うと思っているからだ。教室の中で権威的に振る舞うことは簡単だが、思考を促すためには少し工夫がいる。
では、なぜ講義の際は手書きノートがいいのか?そう考える人は多いようで、これについては、米国などでも研究があってこちらの記事などに書かれている。「学習効率を下げる」という研究結果が次々に出ていたり、他の学生に悪影響があるというからだ。 >> 「講義でパソコン”禁止”」とは言わないけれど。の続きを読む
昨日、NHKスペシャル取材班『健康格差』の中に書かれていた「自己責任論」の話について気になったことを書いた。
「格差拡大で“自己責任論”が強まったけれど、そもそも日本人は助け合ってきたのではないか」
このことについて、最近感じていることを書いておきたいと思う。
イソップの「アリとキリギリス」という寓話がある。これは、「自己責任論」の典型だろう。いまの子どもに対してどのように教えているかは知らないが、僕なんかは「キリギリスになってはいけない」という話で聞かされてと思う。
なんか、辛気臭い話で好きではないけれど「努力すれば報われるし、そうしない人はダメ」というフレームは今でもそうだろう。勉強からスポーツまで、努力は肯定的に扱われている。
このような発想が日本人に定着したきっかけとして挙げられるのが、サミュエル・スマイルズの「自助論」という本だ。この本自体は未読の人でも、「天は自ら助くるものを助く」というフレーズは聞いたことがあるのではないか。
いまは「自助論」というタイトルで複数の訳が出ているが、もともとは「西国立志編」というタイトルで明治4年に出版されてベストセラーになった。西洋の成功者の物語を描いた話だが、これは時の風潮に乗った。
やれば、できる。今でも当たり前のように語られるこのフレーズも原形を探ればこの辺りに行きつくだろう。 >> 「自己責任論」は最近の日本人の発想なのか?の続きを読む