(2010年7月4日)

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さすがに今週には決めるようだけれど、大相撲名古屋場所の中継、NHKはどうするんだろうか。
民放だったら、こんな直前までプログラムを決めないわけにはいかないよな、とか余計なことかんがえてみるけど。
ちなみに、相撲は全然見ないし興味もないので個人的にはどうでもいい。そういえば、地上波のプロ野球中継も殆ど見ないけど、別に世の中普通に回っているし。
で、1つ思ったんだけれど、「相撲はアナログでしか見られません」というのはどうだろうか。
デジタル対応した人が相撲の好きな人が、あわててアナログテレビを探す。ところが、ないものだから既存のアナログテレビに高値がつくので、アナログの人はオークションとかで高く売る。
これで買い換えれば、地デジの普及率が上がる。
で、次の秋場所では「ワンセグだけ」にするとか。相撲好きが高齢者が多いんだから、彼らの金を使わせるにもいいと思うんだけれど。



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「顔を見ればわかる」という本があった。とある脚本家の書いた「顔」評論で、政治家から芸能人まで「顔」を批評して言いたい放題の本だった。
かなり、乱暴な評論だったけれどそれなりに妙な納得性があったりした。
顔についていうと、これは結構重要じゃないかと思うことがある。
よく大学生に「採用面接でどこを見るか」と聞かれるが、僕の場合はまず「顔」である。
これはキャリア関連の仕事をしている人でそう考えている人は結構多い。
もっとも言うか言わないかは別である。現役の人事が口にしたら、まあ問題にはなるだろう。
ここで言う「顔」というのは、最初の会った時に「負けない」ような強さを持っているかどうかということである。もちろん「眼」の比重は高いけれど、単に面接官にガン飛ばしてもどうにもならない。
顔全体に「強さ」「自信」といったものが漂っているかを、気にするのだ。
で、そういう面から見ると、近頃見た「最低の顔集団」は、相撲協会の人々である。
今の理事長も、その前だって現役の時はもっとマトモな顔をしていた。ところが、記者会見で見る顔はひどい。追いつめられての会見だからではなく、実は平時から結構ダメな顔だと思う。
他の理事もひどい。目が定まっていない、泣きそう、あるいは逆に睨んでいる。
暴力団がらみで降格された親方に至っては、しゃべりも含めて問題外の外、といった感じだった。
僕が興味を持つのは、いろんなスポーツの中でこれほど「現役と引退後」の顔の落差が激しいのが他にはないということだ。

>> そもそも親方の顔がダメだと思う。の続きを読む



(2010年6月13日)

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めずらしく、政治の話。
鳩山内閣の退陣を「マスメディアの圧力」のように書く雰囲気が、とりわけネットでは強いようだけれど、それに対して疑問を持ったのが今回の分析。
つまり、「首相ってそれほど脆いのか」「メディアはそれ程強いのか」という話である。
結論からいうと、首相というのはそうやすやすと「辞めさせられる」ものではない。今回の交代劇も、参院選の年に見られる党内圧力由来の「表紙替え」の典型ということだ。
佐藤栄作以降の「辞めた理由」をチャート分析したのが、ご覧の図である。まあ、複数の理由が重なることもあるので議論はあるかもしれないが、ほぼこういう感じだと思うよ。

さて、上から見ていくとBの場合だと宮沢は内閣不信任案の可決で、後の2人は政権与党が少数派になったことに伴う辞職。
Cというのは、福田しかない。まあこんなことができたのも、自民党に余裕があったからだろう。

Dというのは、3人とも長期政権である。こうして堂々と退陣できた首相は大変少ない。一方その間に後継者を競わせるので、「三角大福中」「安竹宮」「麻垣康三」などのワードが生まれる。そして、その後の政権は、この有力後継者のたらい回し状態になって、それが尽きた頃に長期政権が生まれる。
このあたりまでは、一応何らかの「ルール」の結果である。

日本的、というか何とも言いがたいのが「自発的辞任」であるけれど。これも幾つかのパターンがある。

>> 首相を辞める理由。の続きを読む



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政治のニュースは多いし、注目されているようにも思うのだけど、そこで行われていることのクオリティの低さは、かなり凄まじいことになっているような気がする。
一方で、経済ニュースって毎日とても緊張感が高いし、企業の第一線で働く人も経営者もすごいゲームの中に身を投じているんだろうな、と思うし、この緊張感は90年代後半からどんどん高まっている。
それで職場が厳しいというのはたしかにそうなんだろうけれど、この緊張感の背景にはテクノロジーの発達があるわけで。
そう考えると、この15年間くらいの間に、政治というのがテクノロジーの発達から取り残されちゃったんだろうな~と思う。日本の選挙でネットが解禁されてないとか、そういうレベルじゃない。日本に限らず、政治って「生活の足を引っ張るもの」になってる気がする。
ちょっと前の英国総選挙の時、たまたまずっと自宅にいたのでBBCの開票速報をCSで見ていた。いつまで経っても、多数派が決まらないイラだちがキャスターの雰囲気からも感じられたんだけど、驚いたのはこの日の選挙で「投票所に行ったのに時間切れ」で、投票できなかった人が結構いたのだ。締め切り間際でもまだ行列が途切れず、それでもって「はいここまで」というわけで、これが「民主主義の手本」とかいう以前のお話だった。
その選挙結果も、クラシックな単純小選挙区制の矛盾噴出といった風情だ。このグラフは、左が得票数で右が議席数の割合を比較した。
第三極である自民党の得票の大半が死票である。
ここにきて伝統ある小選挙区制度が問題になっている。だが、それは第三極の得票が伸びただけではないと思う。
社会や経済が変わっていく中で政治だけが変わらず、むしろ生活の足を引っ張っているような感覚なのではないか。選挙制度はその象徴に見えている気がする。
17世紀の英国革命はいち早く市民社会の発達を促し、産業革命などをもたらしその後の「英国の時代」を呼び起こしたとされる。
かつては政治的安定が、経済の発展をもたらして社会を安定させるという図式だった。しかし経済がグローバル化していくと、国単位の政治システムはついていけない。そういう事例は山ほどあるんだろうけど、英国の「投票に行ったら締め切りお断り」というのは、どの国でも政治が”お荷物”になっていることの象徴なんだろうか。



(2010年4月26日)

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「団菊爺」という言葉がある。「いや先代の団十郎や菊五郎は素晴らしかった」と、歌舞伎の昔語りをして「それに比べりゃ、今の連中は……」と嘆く爺のことである。明治あたりのことばらしいが、たしかにこういうのはどの世界にもいる。
落語で言えば「志ん生や文楽」で、クラシックなら「フルトヴェングラーやトスカニーニ」という感じだろうか。スポーツでもありそうだ。
こういうのって若い世代から見れば「また始まった」みたいなもので、適当にあしらわれつつ、老いていくのみ。せっかくだったら、いま眼の前で繰り広げられいている世界を楽しめばいいのに、と僕なんかは思う。
で、そういうファンの繰り言であればいいんだけど、結構ビジネス界にも「団菊爺」はいるものだ。そして、それは結構困ったことだったりする。
「いや、本当にあの人はサムライだった」
「やっぱクリエイターとしての生き方が違う」
とかいって、よく聞いてみると単に羽目を外した飲んだくれ営業だったり、女性関係にルーズで離婚を繰り返したデザイナーだったりする。単にセクハラ・パワハラ全開の、いわゆる「セパ両リーグ」を渡り歩いた困った人なのに。

>> 団菊爺の嘆息。の続きを読む