想像以上の災害状況を知り、被災地の方々は本当にお気の毒に思う。何ができるか、ということはまず義捐金だと思うし、一方で首都圏の我々が「しっかり仕事をする」ことで経済を回して行くことが大切だと思っていた。
というか、今でもそう思っているのだけれど、ここに来て電気供給がかなり深刻になってしまっている。計画停電の混乱については、情報発信を中心に東京電力の問題を指摘するのは簡単なのだけれど、それはあえて書かないし、現在はあまり意味がないことだと思っている。
ただし、「停電していないのに混乱した」内容の殆どは交通に関するものなのだから、ここを安定できれば、ビジネスは一定の回復をしていくと思う。
我が家でもいくつかコンセントを抜いたりしている。低層階なのでエレベータも控えている。パソコンは夜間に充電すれば、日中はラップトップで対応できる。
で、やはり単純な行動として、もうテレビは消していいのではないだろうか。
発生直後の報道は貴重な情報であったが、今朝の民放は通常の枠で、どうでもいいコメンテーターの、どうでもいいお話の垂れ流しになっている。
節電を呼びかけるなら「まずテレビを消しましょう」でいいのではないか。定期的にネットを見たり、緊急情報が必要ならラジオで十分ではないだろうか。
被災地の状況を知ることは大切だけれど、それを見続けて被災者以外の心理が必要以上に悪化しては意味がない。自分自身も、テレビを切ったら少し気持ちが変わってきた。
節電と、自己管理の両面からも、まずテレビを切ってみることから始めてみてはどうだろう。



(2010年12月8日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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モバゲーに公取委の検査が入ったようだ。事実であれば、よろしくないことは確かなのだけれど、「ああ、やっぱり」的な感覚である。いや、現場の状況に詳しいわけではないんだけれど、携帯ゲームの企業には少々greedyな印象がある。もしかしたら「怪盗ナンタラ」のイメージがあることからの先入観かもしれないけれど。
しかし、モバゲーにとってはかなりタイミングが悪い。何とも叩かれる素地がそろっているように思うのだ。昨日の新聞でもテレビCMの放送回数で携帯ゲーム二社が2位と4位に入っていると報じられていた。また、収益力の高さも注目されている。
それでいて、課金システムなどについての巧妙さについてやっかみ半分の批判もあったり、「下流喰い」という人もいる。さらに釣りのゲームを巡っての訴訟など、まあ何というか「あまりお行儀のよくない」感じがあったわけだ。
ちなみにこの「お行儀がよくない」という表現、金融界の人がかつての関西財閥系銀行のことを評するのによく使っていた言い方である。
この「叩かれる潜在文脈」を持っていたという点において、この一件、エビ蔵と何とも似ている。彼だって、「あまり好かれていないけれど正面切って文句は言いにくい」タイプだったのだ。だからこそ、あれだけの祭りになる。出てくるネタが突っ込みどころ満載だし。
その一方で「出る杭を叩く」歴史がまた来たのか、という印象を持つ人もいるだろう。そう意味では、「どこかで見た風景」と言えなくもない。
もっとも「公取委が検査に入った企業のゲームなんかやれるか!」という人がそれ程いるわけでもなし。ニュースの意味がわからんユーザーも多そうだし。ただしビジネスの世界におけるポジションは、下がるだろうし、人材採用などにはジワジワ影響が出るだろうと思う。
しかし、あれだけ出稿の恩恵を受けているテレビ局にとっては「自粛」されたらたまったもんじゃないだろ。「それはエビだけでいいから」が、局のお願いだろうなあ。



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とりあえず、夏休みな感じである。涼しいところから東京に戻ってきて、明日からは近くのホテルで冷房三昧の予定だ。読書と次作の単行本のノート作りになるだろう。
で、話は変わるのだけれど、情報で人の生活は本当に変わるんだろうか。あるいは、幸せになるのだろうか。
最近になって、急速にそういう感覚になってきた。
マーケティングやコミュニケーションの仕事をしているので、あまり大きな声では言えないのだけれども、個人的にはそんな感じなのだ。
i-padが大騒ぎになったり、i-phoneユーザーが身近で増えてきたのに、何だか全く興味が湧かない。twitterも熱心ではないし、facebookは漫然と「承認」をするだけ。この週末もダイアルアップ環境だったので、メールをやり取りする以外に特にネットも見ない。
フォースクエア(foursquare)というサービスに至っては、自分にとっては全く関係ないものに見えてくる。そもそも自分の居場所を人に教える気がないので、そもそもターゲットじゃないんだろうけど。
友達とつながって一人ランチをしなくてもすむ、とかいう記事を読むと、ますます意味がわからなくなる。いや、それに意味を感じる人もいるからサービスが成立するのだろうけれど。
いつも思い出すのだけれど、入社直後に担当したとある外資系コンピュータ企業の方がしみじみと言っていた言葉がある。
「結局、コンピュータが普及しても忙しくなるだけです」
それは広告の主旨とはまったく違うんだけれど、この人はとても覚めていたのだ。しかも理由が明確である。
「コンピュータは一時的に仕事をラクにするかもしれないけれど、コンピュータの”おもり”が大変になるんです。結局、気がつくとコンピュータに働かされる」
この頃は、当然パソコンは普及していなかったし、「そんなものかな」と思いつつ、とても印象に残っている。

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宝塚の「トラファルガー」を見た勢いで、同時代の歴史書が読みたくなった。最近、本を買うのはほとんどがamazonなのだけれど、久しぶりに書店の本棚、特に歴史ものでも見てみようかと紀伊國屋書店の新宿南店へ行った。
だだっ広い割に専門書の並びについてはかなり悪いイメージがあるので、あまり行かない本屋である。ただし、あまりに暑いので地下にパーキングのある書店を選んだというだけの話なんだけれど。
結局、一冊も買わなかった。歴史のコーナーに行ったのだけれど、「フランス革命」「ナポレオン」はともかく、同時代の欧州を俯瞰するような書物は見つからない。もっとありそうなのに……と思ってふと気づいた。
新書、選書、あるいは文庫はここにはないのだ。別のフロアに行かなくてはならない。しかし、行ったところでそうした版型の本は出版社別である。探すのは、かなり苦労する。出版点数が増加したことで、リアル書店の構造的な問題がますますクッキリとしてしまった。
結局、一人でカレーを食べて家に帰った。
そして、結局携帯で検索しているうちに、面白そうな本が見つかってきた。
しかし、リアル書店は厳しいんだろうな、と改めて思う。書棚を見ると、いろいろと分類されている。本と本の間に「タグ」のように項目名が挟まっているけれど、これが何とも、キビしい。
近代史のあたりだと「フランス史」「アフリカ史」「ベネルクス史」のように基本はエリア別なのだけれど、例外的に「テーマ」でタグがある。この書店の場合は「ナチス」「ホロコースト」そして「従軍慰安婦」だ。ちょっとずれたとところには「三国志」があった。
つまり、この書店の歴史観はそういうことなんだろう。

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近所を散歩していたら、ある家の軒先から夫婦の会話が聞こえた。
「誰が、そんなこと言った?」
「だって、テレビで言っていたもの」
突っかかった夫はそこで沈黙したらしい。前後のことはわからないのだけれど、こういことはよくある。特に一定以上の歳の人は、メディアの情報を鵜呑みにする。
実際にはメディアの情報はすべてが本当とは思えない。別に意図的な嘘でなくても、「嘘」としか言いようのない情報は巷にあふれていて、それはマスメディアでもインターネットでも同様だろう。
で、どんな時にどんな「嘘」が生じるのだろうか。
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1.過剰期待で生じる嘘
「料理番組のレシピが今ひとつおいしくない」とか「芸能人の喜んでいた宿がたいしたことない」「褒められている映画がクソだった」というようなもので、これはメディアのコンテンツや登場人物に対する過剰期待から生じるパターン。まあ、よほどのバカでなければ段々と学習して、信頼できる情報ソースを探すはずだ。
2.予測で生じる嘘
これはスポーツの順位予想から、経済政策論議までいろんなところで出てくる。つまり「予測」というのは複数あれば誰かのものが外れるのだから、ある意味宿命的なもの。ただ、「岡ちゃんごめん(#okachan_sorry)」が生まれるネットに比べて、マスメディアにはかなりのトホホ感が残る。
3.ミクロな嘘

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