クルマを買い替えることにした。欲しいクルマはハッキリしている。初めて買うメーカーなので、まず試乗に行くこととした。名門国産メーカーだが、一時期窮地に陥り、海の向こうからのカリスマ経営者によって再生された企業である。
試乗車がある場所を検索したら、隣の駅の店にある。土曜の午後に妻と訪れた。
入ると客が二組。一組は営業が応対。もう一組はサービスが応対していた。
シーン、としている。他に店員はいない。接客中の二人は、全くこちらを見ない。
奥の受付まで歩いて行った。誰もいない。
さて、どうしたものか。と思ったのだが、呼ぶ方法もない。
「ごめんくださ~い」
とは言わなかった。やがて、サービスの人がこちらを気にしている。試乗の件を伝えたら、やっと呼んでくれた。
「○○○を試乗したいのですが」
「すいません。今は置いてません」
「……」
HPの掲載の件を謝ることもなく、他の店を探します、とかもない。
さて、どうしようか。と思い、別の店に電話して試乗車を確かめてから行く。今度はちゃんと店員が出迎えた。当たり前なんだが、いい店に見えるのがすごい。
試乗して顧客カードを出されたので、とりえずメールアドレスだけ書いた。
その後、まったく連絡はない。
冷やかしと思ったのか、それならそれでもいいんだけど、この店もどうかなという気になる。
結局、3軒目でようやく真っ当な人に出会えたので、ここで買うことにした。
しかしここまでの仕打ちというか、ひどい対応でありながら買いたいクルマを作っているのはすごいと思うんだが、大丈夫なんだろうか。どうやらこの会社はかなりの国内シェアアップを今後狙っているという。
しかし「土曜の午後に客が来ても誰も出てこない販売店」をドンと構えているような状態で、シェアも何もないのでは。一応心配してみるのである。もうすぐユーザーになるわけだし。
「今こそモノづくりの底力を」
うん、とてもいいメッセージだと思う。CMもいいと思った。ところが現実は大変だ。
「今やモノ売りの底割れが」着々と進行しているようなのである。
がんばってほしい。いいクルマ作っているのだから。
「博報堂を辞めました」という文章を読んだ。自分も同じ経験をしているのだけれど、経緯を書いたことはない。というか、辞めた頃に理由を聞かれるのだが、講演会向け、友人向け、得意先向けとかいろいろ言っているうちに、わかんなくなっちゃったのだ。まあ、理由がいくつかないと大きな決断はできないんだけど、段々と辞めた理由を忘れている気もする。
だから、ああやって宣言できるのって何かすごいなとか思う。ただ、途中の「エリート街道」というのは思わず苦笑した。博報堂がエリートかどうか、とかそもそも現代においてそんな街道があるのかという突っ込み以前に、あの言葉を一人称で使ったのは初めて見たからだ。
そのことはともかく、件の文は「肩に力が入った」感じで、それは一般的に褒め言葉ではないのだけれど、でもいろんな意味で読み手を黙らせるものがあった。それは、真摯にものを考えた人ではなくては、書けない文だからだろう。
それにしても、「博報堂を辞めました」って、妙に語呂が良くって「電通を辞めました」だとなんか違うな、と思ったら「七五調」なんですね。だから、前に五文字つけて「古池や 博報堂を辞めました」でも「雀の子 博報堂を 辞めました」でも、ほらいけるでしょ。って全然いけてないけど。
「秋深き 博報堂を 辞めました」うむ、なんか妙にしみじみする。
もちろん語呂がいいから辞めたわけじゃないんだろうけれど、新平さん、広い海へようこそ。
どうしても気になることなんだけど、そもそも「生命と経済」って対立的に語られるものなんだろうか。
昨日、大江健三郎や坂本龍一らが「原発再稼働をやめて」と声明を出したという。あの惨状を見れば、そう考えることが特段偏った考えではないと思うのだけれど、記事にあったこの一節が気になる。
「経済活動を生命の危機より優先すべきではない」
経済=お金であり、経済学=お金の学問のように考える人がまだ多いのかもしれない。しかし、経済というのは人の生命を支えるために存在し続けるものだ。
電力が不足すれば、たしかに経済活動は停滞する。しかし経済の停滞は、決して生命を救わない。リーマン・ショック後に、どのようなことが起きたかを思いだせばすぐわかる。
放射能の影響を最も受けるのは、子どものような弱者だ。しかし経済停滞で影響を受けるのも、また弱者である。
そういう想像力、というか常識が欠落したまま「経済か生命か」という誤った二項対立が流通している。そのままでエネルギー問題は前進しない。そのことをまず共有しなければ、何も進まないのに極端な意見が好まれる。安全で安定した生活を望む人にとって、本当の敵がどこにいるのかを考える時だと思う。
最近、近所の散歩コースで猫の家族と出会う。母と子ども4頭。3頭は母と同じキジトラなのだが、一頭だけが白い。この白い子猫がまた人懐っこいのだけれど、本当に可愛いのだ。
で、書きたいことは全然違うんだけど。
いささか旧聞に属するが(←書いてみるとかなり古くさいな、しかし)、女子サッカーのメンバーの1人の発言がツイッターで流れたことがあった。関わっていたのは大学生だった。adidasの店員の一件とか、他にもサッカー絡みのことはなぜか多いんだけど、こういうニュースを見るたびに思うことがある。
「ああ、若い人もやっぱりマスコミが好きなんだな」
と感じるのだ。たしかに若い人のテレビ視聴時間は短くなっているし、新聞も読まない。それでネットは好きなんだろうけれど、志向性の底には「マスコミ的なモノ」があるように思っている。つまり
・一対多の情報発信で
・「より多くの人に」という量的志向で
・同時性を追求する
と考えると、twitterはマスコミ的な欲求を満たすことはたしかだ。
そもそもインターネットが登場した時は「趣味・嗜好の似たような人が濃密な話ができて、時間拘束が少ない」というのがマスメディアに比べての特性と言われた。初期の掲示板なども、いろいろユニークなものがあったし、面白い個人ページもあった。たとえば、ここなんか結構好きだった。
一方ブログが普及したころから、個人HPはどんどん停滞して、SNSの発達とともに掲示板も減っていく。そこにタレントなんかも参入したあたりから、マスメディア化が着々と進んできたんだろう。
「ポスト震災」をめぐって、いろいろな動きがある。調査の方も出ているし、消費データの傾向もわかってきた。大体のことを言えば、「マジメにしっかりした消費行動」というのが、多数派のようである。
細かい分析など、仕掛かり中の原稿などもあって、まだ書けないこともあるのだけれど、いろんな意味で「帰属意識への目覚め」が強まったんだな、ということは話を聞いていると実感する。
企業でも被災したことで求心力が高まったし、計画停電で地元への帰属も確認された人も多い。そして「日本」への帰属意識も高まった。
ただ、もっともシンプルなことは震災のあの日、まず皆が「もっとも大切な人」の安否を確認しようとしたわけで、その多くはまた家族であっただろう。消費の家庭回帰は、このあたりから始まってわけだ。
ということで、とあるプロジェクトでくだらないことを言ってしまった。
「あの地震が、夜だったりすると、たとえば”不倫中のカップル”とかが地震にあったかもしれないですよね。その時、いきなり”妻子(夫)の安否”が気になったりすると、覚めちゃったりするんでしょうね」
すると、とある方が「実はですね……」と教えてくれた。
「いや~、この震災を機に不倫を解消するカップルが結構いるみたいなんですよ……」
ああ、そうかなるほど、「正しさ」を尊ぶ今の風潮がこんなところに反映されるのか、と思いつつ、ふと「自己実現」という言葉が思い浮かんだ。