僕の十年以上年配の方と話していると「鶏肉が苦手」という方が稀にいる。どうやら、幼い頃に、首を刎ねるのを見たことが強烈な印象になっているという。僕なんかにとっては、全く別世界という感覚だった。
最近話題になった「普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたお話」というのを読んで、そんなことを思い出した。これは、自分には出来ない。言い訳はいろいろあるが、まずできないと思う。
彼女のことは知らなかったのだが、こんなインタビュー記事が紹介されていて、それも面白かった。そして、こんな言葉が印象に残った。
「そうなんですよ。私はお金が中心の世界からそろそろ降りたいなと。もうレースにはついていけないんですよ。見えてるゴールがあまりにも残念すぎるというか、全く私が望んでないものなんですよね。私はもっと等身大で人間らしく生きたいし。」
いろんなことを考えさせられるインタビューだった。
それは、時代の気分だろうし、似たような感覚になる人は多いようだ。しかし、その一方で、僕はまだ「お金が中心の世界」から降りることはできない。それは、お金が必要なことはもちろんだが、降りるほど強くはないからだ。
実は、お金というのは「弱者の味方」という面もあると思っている。
橋下徹氏の現在の最大の功績は「文化人の能力」を明らかにしていることだと思う。テレビでの論争もそうなんだけど、その後にこういうダメな文章を残してしまうことで、ますます文化人の底を明らかにしていく。
これはある種の「ろ過プロセス」のようなものだ。ただ、そうやってダメな文化人がとかされた後に、澄んだスープになるのか、実はただの水でした、ということになるのかはわからないんだけど。
「反橋下」という人々が出てくるのは、それはそれで必然だと思うんだけど、じゃあなぜダメなのか。それは、正面から「意見」を言っていないからだと思う。
大雑把にいって「政策がよくない」のか「方法がよくないのか」という二つの切り口があると思うんだけれど、正面から政策の問題に切り込んでいないように見えるのだ。「都構想」や教育委員会の問題だってあるのに、すぐに「方法論」に逃げている。
そして「独裁的」だとかいう言葉になる。そうなのだ。選挙で勝ったということは民主的手続きで政策が支持されたのだから、どうしても文句が言いにくい。そこで手法にケチをつけるしかないのだろう。
しかし、それは実は多くの人々(有権者)の感情を逆なでしていることに気づいていない。そもそも日本人は「自分たちの多数意志」が政治に反映されないことにイラついてきた。かつての中選挙区制では政権が選べず、とりあえず政権を選んでも参院の半端な制度のせいで、前に進まない。
そのフラストレーションが、もっともわかりやすい首長選に向かっている。
つまり「自分たちで選んだ」という人が多数派なのに、「独裁的」「少数派切り捨て」という、「戦後民主主義文学」による批判は多くの人に嫌悪されるだけではないか。
民主主義は、多数が独裁するシステムだ。しかし、それを変えることもまた可能であり、それは有権者の仕事だ。半端な文化人への反発は、彼らがその大事な仕事にケチをつけて「自分たちの意見を聞け」と言っていることにある。だが彼らはそれに気が付かない。
何だか霞ヶ関より前に「文化人村」が解体されていくような気がしている。
■お知らせ:昨日の日経朝刊で新刊「世代論のわな」が紹介されました。詳細はこちらのエントリーで。
「食べログ」をめぐるトラブルの話って、なんか安易に糾弾できないような気がしてる。
まあヤラセがよろしくないのはともかく、何というかあのサイトを気にしないと思いつつ、気になる自分がいたりするわけで。
それは、ある種の「病」じゃないかと思っている。あえていえば「不安と嫉妬病」とでもいうんだろうか。
食べ物を巡る情報は溢れていて、かつニーズも強い。ただ、誰もが自分の味覚に自信を持っていないのだろう。だから、食の情報なかでも点数化されたりランキングされるものが人気になる。
おいしいと思ったレストランに行った後で、ネットの情報を見る。それは、コンサートや芝居のあとに批評を見ることに似ている。共感できれば、自分の体験はより豊かなものとなっていく。
問題は、そうでない時だ。ここで「やっぱり味のわからないやつが匿名で言いたいこといってるや」と思う人が多数派ならば、食べログだってあんなに見られないだろう。そうなると恐る恐る、自分の納得度を上げてくれる情報を見たくなる。
その一方で、「もっとおいしいものを食べている人がいるんじゃないか」という、気持ちもあるだろう。偉そうに食べ歩きを誇っている人への妬みも起きてくる。価格の高い店だと、そうした妬みが行間から滲んでくる。
携帯ニュースで日経[号外]というのがあって、それなりに重宝している。もっとも「そんなに慌てなくても」というようなニュースも[号外]になって、鉱工業生産指数や米国の失業率がコンマ何%か変化しても[号外]だったりする。
ただし、先日の号外は掛け値なしに号外であって、それは金正日の死亡を伝えたからだ。
これを、僕は一人で昼飯を食べようかという時に受信した。その日は、時間があったので仕事の合間に一人で散歩しながら昼飯を物色していたのだ。
しかし、それがよりによって「蒙古タンメン中本」とは。金正日と蒙古タンメン。この組み合わせは、一生忘れないかもしれない。
家でテレビを見ている時の臨時ニュースなどは、印象に薄くても、このような外出先でのニュースはなかなか忘れない。金日成が死んだときは、妻とともに軽井沢近辺を走っていて、ラジオの臨時ニュースで聴いた。この時も、唐突で驚いたものだ。宮崎勤の判決を旅行先のパリで知ったとか、一人でエヴァンゲリオンの映画を見て外に出てニュースを見たらメイショウサムソンが天皇賞に勝っていて、馬連をとったとかもいちいち覚えている。
これはいわゆるエピソード記憶なのだけれど、印象的な情報は、普段行かないようなところで知ると、その二つが連合してよく覚えられるのである。
実は、10年以上前にこれを応用して、メディアプランができないかと思っていろいろ考えていた。広告会社の研究開発部門にいた時のことだ。国際線の空港で広告を見るブランドは、それだけでグローバルな感じがするし、それは見る当人がそう思っているから。
そんな仮説でいろいろやりかけたのだが、気が変わって人事に行ってしまった。ただ、このような発想は、ネットの時代になっていろいろな広告技法となっている。
しかし「金正日と蒙古タンメン」。この妙な親和性にはかなわないだろうな。
今年のクリスマス・イブは都内のホテルがかなり混んでいるという記事を「そうかな~」と勘繰りつつ調べたら、本当にそのようだった。「一休.com」だと、都内で空室があるのは2つだけ。他のサイトでも似たような感じだし、関西もそうだった。
この時期になると、ホテルの空き具合をチェックしていた。泊まりたいのではなく、「世間のクリスマス」を知っておきたいだけなんだけど。いつから、とは覚えていないが、まあこの数年はかなり空いていて直前にはかなりレートが低くなっていたと思う。
僕の感覚だと、2000年前後にクリスマスの過ごし方は変わったと思っている。ちょうどイブの夜に通夜に行ったことがあった。さすがに、はしゃぐ気分になれず帰宅前に近所の韓国料理屋に行ったら、若い人のグループでいっぱいだった。その前後に表参道を歩いたこともあったが、回転寿司が大行列だったりもした。
ようやく80年代的なクリスマスは、終わったのだろうと感じていて、それはホテルの予約状況などにも表れていたと思う。
じゃあ、誰が泊まるのか。かなり高額な部屋も売れているわけで、若いカップルとは限らないだろう。ファミリーユースもあるかもしれない。たしかに今年の国内消費は、経済指標では説明できないことも多いのだけれど、これもそうだんだろうな。いや「絆」とかそういうんじゃなくて。
何だか気になるのだけれど、当日は東京を離れて山の中にいる。それは、まだ珍しい方で、毎年イブには外出していない。一応過去の手帳を見ると、書いてあるのは「有馬記念」とかなぜか「墓参」だったり。昨年に至っては24も25も白いまま。
実は、やっぱり街は賑わっていたのだろうか。何だかいきなりクリスマスが気になってきた。あとで、東京の様子でも誰かおしえて。