今さらではあるけれど、服を買う時に店員が使う「きれい目」という言葉が気になっている。何がきれい目か?という前に日本語としての語感も引っかかる。

なんで引っかかるんだろう、と思ったが、まず「きれい目じゃない服ってなんだよ?」ということ。「早め」の反対が「遅め」なんだから、きれい目の反対は「汚い目」?とか思ってしまうが、そういうわけでもない。

で、気づいたんだけど「きれい目」であって「きれい」ではない。これは、「中央値よりややきれい」なニュアンスだと思うんだよね。

「強く」がフォルテなら、「強めに」がメゾフォルテ。だから、すごく頑張ってきれいなわけじゃない。

「きれい目」で画像検索かければ分かるわけで、まあ爽やかで、サッパリした感じの服がならんでいる。

そういうわけで、実際に店の人に聞いてみたりした。「きれい目って、どんなこと言うの?」って。ネットで調べてもよくわからんのだけど、実際にプロが語っているようなサイトもなかなかない。

いろいろ聞いてわかったのは、みんな何となく使っているけど、共通してるのは「きちんとしてる」というニュアンスだった。すくなくても「ラフではない」し、ダラダラし感じじゃない。

「職場にも着て行ってOK」という感じでもあるようだ。 >> 服を選ぶ時に聞く「きれい目」って何なのか?と、店の人に聞いてみたら。の続きを読む



higashinakano最寄りの駅はJRの車庫がある。乗務員が交代したり休憩したりするので、ちょっと変わった風景が見られる。

昼に定食を出す和食屋で昼から刺身を頼んでビールを飲んでいたり、なぜか14時からやってる居酒屋があったりするのも、実は変則勤務で昼に仕事が上がった人が結構いるからだ。そういう店には壁にJRのカレンダーがかかっていたりする。

時折、制服のままでランチを食べに行く人たちもいる。しかも、あの謎の四角いバッグを持ったままで街を歩いている。いったい、あれには何が入っているのか。

そう考えると、鉄道職員同士の世界って、なんだか不思議だ。どんな会話をしてるんだろ。

「いやあ~今朝の西行きの混み方はひどかったねえ」

「錦糸町の乗降があそこまでかかるとなぁ」

みたいな話だったりするんだろうか。

そういえば、昨年のクリスマスの朝に電車を待っていたら、若い女性乗務員が交代のためにホームの端で待っていた。そして、向かいのホームに上がってきた同年代の男性乗務員と目が合うと、笑って手を振っていた。男性の方がちょっと照れていて、なんかクリスマスもいいなあと思った記憶がある。 >> 「ウルトラマンスタンプラリー」で気になる、鉄道職員の世界。の続きを読む



vaue昨日の東洋経済オンラインに掲載された『マクドナルドの「謝罪」は、何を間違えたのか』という記事を思って、ちょっと感じたことを書いておこうかな、と。

記事の主旨は、一連の不祥事に対してのマクドナルドのメディア対応が不適切であり、どうするべきかという視点での内容だ。たしかに、一連の事件における同社の対応はいろいろと問題があったとは思うし、記事全体の指摘はおおむね理解できる。そして、このような不祥事が起きた際には、「企業が平常時につきあっている経済部記者より、社会部記者が主導権を握る」という指摘のあとで、「社会部メンタリティ」について以下のような記述があった。

(以下引用)不祥事や事件に日々直面する社会部記者は、謝罪会見で不祥事を起こした企業の正当性を聞こうなどという気はない、と考えたほうがいい。彼らは、ひれ伏す企業のトップを国民に紹介することを頭に描きながら会見場にやってくる。マクドナルドは、そういった不祥事におけるマスコミの「社会部メンタリティー」を全く理解できていなかったといえる(引用ここまで)

これはあくまで一般的な「社会部メンタリティー」を指摘しているのであって、この文を書かれた方が同じメンタリティーを持っているかどうかはわからない。でも、この一文を読んだ時の「いやぁな感じ」ってなんなんだろうかと思った。

簡単にいうと、ここで書かれているメンタリティーを持った人には近づきたくないな、という感覚だろうか。そして、最近のジャーナリズムに対する一般人との意識のかい離が、なんとなく浮き彫りにされたと思うのだ。 >> 日本のジャーナリズムは「二流の桃太郎」なのか。の続きを読む



sports

「これからも応援よろしくお願いします、とは絶対に言わない。」

イチローが昨日の記者会見で、そんなことを言った。そして「応援していただけるような選手であるために、やらなければならないことを続けていくと約束する」続けたらしい。

イチローの発言自体は、全体に肩に力が入ったところもあり、この言葉も受け止め方は様々だと思う。ただ僕も「応援よろしくお願いします」には違和感を感じていて、あらためてその感覚を考える機会にはなった。

そもそも、選手と観客の関係を考えると、応援というのは「期待」を形にしたものだ。そして、選手は期待に応えることで、関係が持続する。で、期待に対しては、選手から観客へは勝利や美技と言った喜びが「贈与」される。また、この喜びは、何人で分け合っても分け前が減るものではない。だからこそ、スポーツは多くのファンを魅了してきた。

ところがいつ頃からか、選手はファンに応援を「依願」することになった。そうなると、今度は観客から選手に応援が「贈与」されるという関係になっている。

なんでだろうな~と思った時に、ふと気づいたのは「感動をありがとう」という言い回しだ。 >> イチローの発言で改めて考えた「応援よろしく」の件。の続きを読む



パワポ、つまりパワーポイントをやたら使うことの弊害って、みんな何となくわかりつつ、何となく使ってるという感じなのかもしれない。

別にMACだし、パワポじゃないよ、という話ではなく、広く「スライド」を使うことの問題点と考えてもらえばいい。僕自身、最初に使ったスライドのソフトはマックの「クラリス・インパクト」だった。当時の職場はマックが標準だったのだ。

90年代後半から、「スライドをつくってプレゼンテーション」というのが、ビジネスでも学校でも普通になってきた。僕も普通に使っていたのだけど、見直したきっかけは大学の講義だった。

パワーポイントを使って、要点を説明し、適宜データを紹介していたのだけど、最近、これをやめるようした。もともとは、就活で出席できない学生のためにスライドのpdfをオンラインで配布していたのだけれど、自分で話していて、いまひとつ広がりがない。

で、手元にメモだけおいて、ひたすら板書していくことにした。

これが、結構いい。というか、学生の集中度が上がっている。板書して話していると、何となく話が逸れるんだけど、その辺が意外と面白い話のようで、わざわざ講義の後に質問してきたりする。

しかし、あのパワポ、というかスライド文化は結局何が問題なんだろう? >> パワポって、結局何が問題なんだろう?と改めて考える。の続きを読む