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近所を歩いていたら、とある家の垣根に紙が貼ってあった。

「アベ政治を許さない」

最近、掲示板やデモのニュースで見たあの書体だ。ただ自宅に掲出しているのを見たのは初めてだった。いつまで貼っておくのか、来年の正月はこの脇に門松を並べるのかな?とか、一層のことあの書体で「謹賀新年」と書いたらどうなんだろうとか、関係ないことを思いながら歩いているうちに、この言葉への違和感をどこかわかった気がした。

調べてみると井戸まさえさんのブログに、赤木康伸氏のfacebookからの引用が紹介されていた。赤木氏は「政権・政策批判というよりは、安倍晋三氏個人への悪意が感じられる点」に引っかかりを覚えるということだ。

僕が引っかかったのは「許さない」という方のフレーズだ。そもそも、「許す」というのはどういう時に使われる言葉なのだろうか。

普通に考えると「許す/許さない」を決めるのは、「力を持っている人」だ。それは、個人・法人に対して官公庁がおこない、社員に対して企業が行ったりする。親が子供に対して行うこともある。

「現行の政治を許すかどうかは、私たち国民が決める」というのは、国民主権の概念からいえばたしかに、この言葉の使い方が間違っているわけじゃない。しかし、「許す/許さない」を決めるのは相当の覚悟がいるはずだ。 >> 「アベ政治を許さない」への言葉的違和感。の続きを読む



政治に関する話題、ことに海外に関することは門外漢なので書かないことが多いのだけれど、毎朝NHK-BS1のワールドニュースを見ているので、欧州難民の話は相当気になっていた。

日本では、マーケットの激震と五輪に関するゴシップばかりが目立った8月後半から欧州ではドイツのZDFや英国BBCなどで、中東からの難民問題がトップニュースになってきた。各国の世論が「受け入れるべき」に変わったのは、9月2日に報じられた一枚の写真だ。トルコに漂着した3歳の遺体の姿はたしかに強い力を持っている。日本の報道では、兵士が遺体を抱き上げている姿で、一部がモザイクになっていたが元の写真には、さらに強烈なものがある。(こちらがロイターのリンク先だが、衝撃度が強いので閲覧は各自でご注意ください)

ただ、8月28日はオーストリア内で高速道路のわきに停車されたままの冷凍車から71人の遺体が発見されるという衝撃的な事件があった。これにも相当驚いたが、幼児を写した1枚の写真の方が世論を動かした。ということは現在の世論にも相当に情緒的な面があるということだろう。

いまでは「難民歓迎」をキーワードにするような記事もあるが、それは一面を映したものだと思う。既に英国の世論調査ではEU離脱賛成が5割を超えたが、これは難民問題の影響と見らている。また、デンマークでは難民への規制を強化する動きがある。

一方で、難民を受け入れることに積極的なのは、ドイツだ。その目標は80万人というから、それは人口の1%だ。一方で、ドイツの出生率は低く、昨年は回復傾向にあるが出生数は71万人

つまり、1年分の出生数以上の人口増加を想定していることになる。日本だと「120万人受け入れ」というイメージだ。 >> ドイツの「採用戦略」と、ハンガリーの歴史~難民問題を巡っての続きを読む



大騒動のFIFAで、会長が再選された。あまりサッカーに詳しくはないのでその是非を論じるつもりもないんだけど、あの挨拶の最後は驚いた。

両手を挙げて、“Let’s go FIFA!,Let’ go FIFA!”とのたまう光景を何と表現しようかと思って「薄ら寒い」という言葉が思い浮かんだ。

79歳になってなお権力を求める男が、たどたどしく両手を挙げて、日本でいう「ガッツポーズ」みたいな恰好で”Let’s go”だ。

このフレーズは、英語というよりも「レッツゴー」という誰もが知ってるフレーズで、でもよく考えると意外と口にしてないし、身近では聞かない気がする。昔の青春ドラマの熱血教師が口にしてたのかもしれないが。

ただ、今回の”Let’s go”ほど、トホホ感のある”Let’s go”は聞いたことがない。

それにしても、この薄ら寒さって既視感があるなと思ったけど、それは選挙の後の「万歳三唱」に近いかもしれない。ことに汚職などが取り沙汰された人が「みそぎ」と称して出馬して勝ったあとの選挙。

五十肩を疾うに過ぎて、万歳するにも腕が上がってないような議員の万歳と、あのブラッターの姿はどこか通じるものがある。傍からはうかがい知れない権力への執着心が凝縮された感じというのか。 >> “Let’s go FIFA!”って、あの「万歳三唱」みたい。の続きを読む



弁当が燃えたらしい。

内閣府の「女性応援ブログ」がいわゆる「弁当」作りで有名な女性の記事をツイッターで紹介したところ、相当批判が寄せられたそうな。「プレッシャーがかかるだけ」と感じる女性は多いようで、そりゃそうだろうと思う。

お弁当というのは、日本人にとって単なる携行食ではないと思っている。多くの人は幼少期から、高校の頃まで母がつくった弁当を食べる機会も多く、それはまた食の記憶のなかでも独特の位置を占めていると思う。

少し前に東京ガスが弁当をテーマにしたCMを制作して話題になったが、あれは日本人の「弁当コンプレックス」のようなものを突いたんじゃないだろうか。

コンプレックスというのは、特定の事象と複合した心理だ。そして、日本人は弁当に、それぞれ固有の思いがある。それは子どもが遠足に行って、昼を迎える時の期待感かもしれない。また入試の日に、重圧の中で感じる優しさかもしれない。いっぽうで、どこか気恥ずかしさと一体になった記憶もあるだろう。

高校の頃だが、ときどき弁当を隠すように食べている人がいて、別にフツーの弁当なんだけれど、そういう心理もまた弁当がただのメシとは違うから生まれてくるんだろう。

このコンプレックスは、単なるマザーコンプレックスという記憶の心理とも異なる。やがて自分が親になると、弁当作りに直面する。そして、今度は作り手として「この弁当でいいのだろうか」と日々悩み頑張る。弁当箱を開ける期待があったからこそ、「気に入ってもらえるのか」という不安もまた湧いてくる。 >> 日本人の弁当コンプレックスと、褒めたがりの政府と。の続きを読む



「ていねいな暮らし」という言葉がいつ頃からチラホラと見られるようになったが、どこかとってつけたような表現で、その世界観には「本物の顔をした偽物」の空気を何となく感じていた。

ジェーン・スーの「ていねいな暮らしオブセッション」というコラムを読んで、「そうそう」と笑っていたのだが、ここに来て事態はややこしくなった。

どうやら、自分の生活は他者から見ると「ていねいな暮らし」らしいのだ。

きっかけは、妻が同年代数人と話していたことに遡る。自宅でお茶を淹れる時に急須を使っているといったら、他の人は誰一人急須でお茶を淹れてなかったそうな。ティーバッグ、ペットボトルか、粉末茶など。

結果、周りから「山本家は優雅」と認定されたらしい。そんなものなのか。

で、「実は自分たちは『ていねいな暮らし』なのか?」と、気になっていろいろ調べたのだが、以下のような行動が該当しそうなのだ。

・糠床を毎日かき回して、糠漬けを漬ける(担当は自分)

・万年筆で暑中見舞いなどを書く(これも自分)

・毎朝コーヒー豆を挽いてドリップする(妻が作って二人で飲む)

・梅干を漬ける(これは妻がやっている)

・玄米を食べる(白米と半々だけど大概そうしてる)

なんと、僕たちは「ていねいな暮らし」の人だったのではないかという疑惑は膨らむ一方である。 >> 「ていねいな暮らし」という、ていねいでない言葉。の続きを読む