コメンテーターが並んでアレコレ言うようなテレビを見ることは少ないのだが、ネットを見ていて入ってくるテレビの話は、そのような類の番組からの話題が多い。
短時間で気の利いたことを言おうとするコメンテーターの発言は、どうしてもネタになりやすく、ちょっとした弾みに炎上しやすいんだろう。
それにしても、最近目に付くのは古市憲寿氏の話だ。「ハーフは劣化が早い」とか、「手書きの手紙で仕事依頼する人は~」みたいなのを見ていると、テレビ局のために身を挺して話題を提供しているのだろうか、と思ってしまう。(もっとも手書きの仕事依頼は僕も引くと思うし、これが若い会社員のつぶやきならあると思うけど)
「大して中身がなくても、一定の人に反感を買う」発言こそが炎上技の要だ。それは、プロレスにおけるヒールの役作りとも同じこと。
しかし、著作を読むとそれなりに面白いところもあるし、一定の教養がありそうな人が、どうしてこうまでしてテレビに出ては、自分に放火しているのか。その辺のことは本当に不思議だ。
もっとも、テレビのコメンテーターたちの役目は、「盆踊り」のようなものだと思う。みんなで、一定のリズムで踊りながら、適度に茶々を入れる。あまり単調だとつまらないから、ちょっとボケ役もいる。東京音頭が鳴ってるのに、炭坑節を踊って突っ込まれるような感じだろうか。
彼の場合、それじゃ飽き足らないのでダンスを踊って見せているのかもしれない。もちろん、テレビという枠組みの中ではそういう役目も必要だ。 >> 古市憲寿氏の炎上社会学。の続きを読む
年末に羽生結弦が、野村萬斎と対談した番組を見た。狂言の極意を聞かされて相当いい刺激だったのか、途中で「うわぁ、すごい所に来てるな」と地が出たような表情になったのだが、その辺りはファンにとっては相当魅力なのだろう。
こうした感情表現は、当然話題になりやすい。
男子フィギュアの選手同士は仲良さそうに見えるが、実際にそうかはともかくとしても、そういう文脈で、ニュースになっている。野球でも、昨年末スワローズの山田哲人の契約更改に青木宣親がサプライズで現れた時も面白かったが、ジャンルを問わずネタは多い。
男性同士の集団では、この「仲がいい」と見えることが、メディア上では重要になってしばらく経つ。
芸能界では、嵐が筆頭だろう。ファンは、彼らの関係性を消費する。これも事実どうなのかではなく、「仲がいいだろう(でも実は微妙かも…)」という脳内妄想を補完してくれることが大切なのだ。他のグループでもそういう流れになっている。
この「仲良し男子」という文脈は、女性が作って来たのだろう。「キャプテン翼」の薄い本が生まれて相当の年月が経つ。その間に、現実の方が追い越していったような感じもあるけど、内田篤人などはその代表だろう。
人間どころか馬が主人公の「馬なり1ハロン劇場」の作者も女性だが、もう四半世紀以上続いている。 >> 【今年気になること】仲良し男子と戦う女子。の続きを読む
それほど難しいことを書くつもりではないんだけれど、昨年のラグビーワールドカップで考えたのは「日本人」という意識もだんだん変わるんだろうな、ということだった。ラグビーの場合は、長いこと見てなかった人がいきなり南アフリカ戦が盛り上がったので、覗いたら「エ~そんなに外国人多いの?」となった感じだ。ずっと見ていれば別に驚くことではない。
どの国もそういうルールなのだ。
でも、「なんかモヤモヤする」という人も多かったとは思う。ただし、自分の周囲では少なかった。それは「日本人か外国人か」というような発想で考えている場合ではない、というくらい仕事の環境が変化しているからだと思う。で、そういう環境に身を置いている人にとっては、どこの国の人間かというより「どういうチームで働いて目的を達成するか」が遥かに重要だからだ。
逆に考えると「まわりが日本人だらけ」の環境の人にとって、外国人はいつまでたっても“ガイジン”なのだろうし、そういう人にとってモヤモヤ感はずっと続くかもしれない。
僕はふと思ったんだけど、「カタカナ」というのは、結構その辺りの心理に作用するんじゃないだろうか。日本語では表音文字が2種類あって、カタカナは外来語表記に使われるようになった。そうなると、漢字圏以外の外国人の姓名はカタカナ表記なので「代表一覧」とか見れば、一目でわかってしまう。
ラグビー出場国の多くはアルファベット表記で、もちろん綴りによって民族の系譜などはわかるかもしれないが、日本のようにハッキリとは見えないだろう。
そして、スポーツ界では、日本人と外国出身者の間に生まれた、いわゆる「ハーフ」の選手が活躍する傾向が強まってる。 >> 【今年気になること】「日本人」って何だろう?の続きを読む
あけましておめでとうございます。御慶!という落語を一昨日に聞いたので、早々の正月気分だったけれど、まあ東京だと穏やか過ぎるくらいの陽気の年末年始だった。
この写真のサルは、多摩動物公園で11月に撮って賀状に使ったのだけれど、この頃の方が寒そうにさえ見える。
日本には、いろんな慣習があって、流行り廃りもあるけれど正月は変わらない方なのだろうか。ただ、「昔は飲食店はまったくやってなくて、江の島の喫茶店が正月料金だった」と言ったりすると、まあ齢がわかるというものだ。
初詣の風景は相変わらずだが、凧揚げはめっきり見なくなったし、羽子板や独楽回しなどはどうなったんだろう。
いずれにしても、「恒例」というのはありがたいところもあって、「また新年を迎えられた」というのは、たしかにめでたい。
ところが、仕事などを含めて「恒例ばっかり」になるのも問題かなと思うようになった。 >> 2016年、高齢化と恒例化をどうにかしたい。の続きを読む
クリスマスというのは、夫婦二人の家庭にとっては「つかみどころ」がないイベントでもある。若いうちであれば、ツリーのきれいなところに行ったりしたが、最近は馴染みの和食や鮨の店に行くことが多い。
24日は近所の和食屋だったが、似たような年代の夫婦や母娘でにぎわっていた。欧系料理の店は、特別メニューになることが多く、そういうのに背を向けているような年代の人が多い。
それにしても、クリスマスというの日本人の生活にとって不思議な位置づけになっている。
「子どもがプレゼントをもらう」という日であることは、結構前から今にいたるまで続いているが、「カップルで過ごす」あたりは相当怪しい。
大学のサークルは1月初旬に毎年コンサートをしていたので、クリスマスの時期は追い込みだったので、あまり意識していなかった。何となく覚えているのは、4年の頃に空気感が変わっていたことだ。練習の後に居酒屋に行ったとき、一年生の男性が「クリスマスですよねぇ」と、疑問を呈すような口ぶりだったのが印象的だ。
まさに、バブルの前夜で、それ以降どうなったのかは古文書や長老の伝承を聞けばわかるだろう。
ただし、クリスマスが戦後70年の間でどう変化したかというような「考古学」的なまとまった研究はないように思う。
ちなみに、クリスマスは「キリストの誕生を祝う日」だけど、「キリスト」の誕生日ではない。いろいろな説があるけれど、冬至近辺の異教徒の祭りに合わせてキリスト教陣営が当ててきた、つまり「裏番組つぶしのキラーコンテンツ」だったとも言われている。
まあ、経緯はともかく結果としてクリスマスは冬至に近い。つまり、もっとも一年で最も日が短い時期になるわけで、勢い家路を急ぎたくなり、人恋しくもなるだろう。緯度の高い欧州では、15時過ぎには暗くなるという。 >> 日本のクリスマスは「冬至祭り」みたいなものなのかも。の続きを読む