埼玉のとある市の中学校では、毎年3月に「卒業祝い献立」をおこなっていたが、今年はスケジュールの関係で3月11日になったそうな。そうしたら、『教職員から「震災のあった日にお祝いなんて非常識」という声が一部で上がっている。』というニュースになっていた。

埼玉新聞のニュースだったのだけど、こういう話を聞くたびに「追悼」という行為の二面性を感じる。個人の内面における思惟と、社会儀礼としての二面性だ。

別に大災害ではなくても、そのように感じることはあるのではないか。それは、宗教的な営みにもついて回ることだ。

祈る時は1人のこともあれば、複数のこともある。ただし、何万人が一斉に祈ろうが、人が何を祈るかは、その人にしかわからない。だから、祈りの間は、沈黙となる。そう考えると、祈りとは孤独な営みであって、本質的には個人的な行為のように思える。

しかし、人は弔いを社会の行為としておこなったきた。文化人類学の専門書を紐解くまでもなく、それを感じることはできるだろう。葬儀は、集団によっておこなわれる。それが極大化したのが、国葬を頂点とする権力者の葬儀だ。もちろん、民間でもある。ただし、長寿の人が増えて現役のまま没することは減ってきたこともあり、社葬というのもあまり聞かない。

「親族のみにて」というケースは増えており、いまの日本では、弔いという行為はまた内面へと向かっているのかもしれない。しかし、それでもセレモニーには一定の意味がある。先日、会社員時代の先輩が他界して、一か月強を経ておこなわれた「お別れの会」に行ってきた。1人で献花しただけだが、行ってよかった。 >> 震災の日に卒業祝い給食は非常識、という教師の方が不見識だと思う。の続きを読む



大学生が本を読まないという話は、結構前から呪文のように言われている。

最近の調査では、1日の読書時間が「0分」という学生が過去最高になったという。こういうニュースは、調査の中で一番目立つところを抜き出すので、実態を知ろうとするなら元のデータを見たほうがいい。

全国大学生活協同組合連合会の第51回学生実態調査の概要報告(ああ、長い!)というこちらのサイトに行くとその内容がよくわかる。

このサイトの中に、過去10年ほどのグラフがある。そこで見ると、たしかに、「0分」という学生は史上最多で、45.2%になっている。それを見れば「最近の大学生は本を読まない」というように思うが、よく見るとそうとも言い切れない。ポイントは以下のようになる。

① 「30分以上60分未満」と答えた学生は23%で昨年より減っているが、10年で見ればほぼ横ばい。

② 「60分以上」という学生は20%で、これは10年前の25%からは漸減傾向

③ 「30分未満」という学生が2013年の18%から6%に急減

④ 「0分」という学生が2014年の40.5%から45.2%に増加

 

つまり、「30分以上」という学生の総和はあまり変わってない。「30分以下」というのは、1分でもOKなのだが、その層の学生が「0分」になったという感じだ。 >> 大学生は本を読まなくなった、は本当か?の続きを読む



というわけで、今月の振り返りと展望など。

2月は逃げるとはよく言ったもので、年明けは静々と進むが、月が替わるとになると加速したようになる。単に日数が少ないというだけでは説明できない。春が近くなると、「とりあえず2月はいいから、3月来い!」みたいな気分になるのだろうか。

入試や決算もそうだが2月は仕込みのようなところがあり、3月に諸々と決着がついて新年度という感じになる。

今年は年初から芸能ネタから国際関係、あるいは事故・事件などが相次いだので、2月はそれに比べれば「一段落」のようなところはある。ただし、国際的に潮目の変化を感じるニュースが多かった。

1月末の日銀によるマイナス金利決定は大きなインパクトだったが、株式市場は世界的に下降基調にあり、かつ乱調だ。原油増産は凍結といっても減産をしないのなら当分は負の影響が続くだろう。当然のように、為替もややこしいことになっている。

東京市場の下落を受けて、アベノミクスの終焉というタイトルも目立つようになった。新聞社の世論調査もアベノミクスへの賛否を問うていて、多くが「反対」というが、マクロ政策などについて自分の見識を持っている人はそうそういないわけで、実際に内閣支持率は横ばいのようだ。

一方で、欧州から中東においては大きな動きがあった。シリア停戦がどうにか発効する一方で、EU改革案について合意。キャメロン首相には得点のように見えたが、ロンドン市長が離脱賛成の意思表明をおこなうなど混沌としている。一方でドイツも移民の抑制策を議会が可決するなど方向転換が進んでいる。

昨秋からの難民流入に関する政策が大きな転換点を迎えた。僕はドイツの「寛容」な政策には懐疑的なことを書いていたが、結局こうなったのかという感じである。いずれにせよEUは正念場を迎えるが、そういえばFIFAの新会長はスイス出身の45歳に決まった。 >> いろいろ決着を先送りして2月は逃げる。の続きを読む



街を語るのは難しい。というのも、本人の経験が限定的だからだ。

現住所は基本的に1つだし、勤務先やら留学先とかをかき集めても限度がある。だから、街を語る文化人はフィールドワークをするわけだが、これもまた時間がかかる。

そして、どうなるかと言えば、知識勝負になる。だから、現代日本の話に古代ローマや中世の京都とか持ち出してくるわけで、聞いてる方としてはもうどうでもいい感じになっていく。

しかも、その街の当事者が語るとは限らない。まあ、語るだけなら誰が語ってもいいんだろうけど、他所の人が「これを壊すなんて」と言ってきて面倒になることもある。

そうした理屈と関係なく、好きな空間を語り倒すとなると、結構思いもよらない発見がある。昨日書評を書いた「ショッピングモールから考える」にはそうした楽しさがあった。

ただ、僕自身の感覚としては、それほどピンと来るわけではない。もともと、東京区部の西で生まれ育って、高校までは区内だった。転勤後に結婚したが、東京に長い割には知ってる場所が少ない。結局は似たような場所にずっと住んでいる。

30年以上通っている小さな店には、顔なじみの高校の先輩がいる。新しい店も増えたが、そこにも常連がいて濃い空間をつくっている。

それが当たり前の世界なのだけど、だからといってモールを批判する人の気持ちもよくわからない。僕の住んでいる昔ながらの住宅街と、駅から連なる店は相当に閉鎖的でもある。ことに酒を飲まない人にとっては居場所が相当限られる。夜にメシだけを食って帰ろうとすると選択肢が少ない。コンビニが流行るのも納得できる。

モールに代表される再開発エリアの方が、よほど選択肢が広い。それを「猥雑さや陰影がない」などと評するのは簡単だが、そもそも街にそういうものを求めるかどうかは、個人の好き好きだろうし、生まれ育った経験にもよる。 >> 街を語る文化人の落とし穴。の続きを読む



民主党が党名を変えるかもしれないという。

ううむ。維新側はそういう主張になるだろうが、参院選までに浸透させることができるのか、というよりもそもそも新党の名前って相当難しくなってるのではないか。

伝統的な政党名は、「自由」「民主」「共和」「社会」「共産」のような感じだったが、日本で変化があったのは1993年の細川政権の頃からだろう。「日本新党」「新生党」などが誕生して、その後はもういろいろである。

民主党の安住淳氏が「惑星とか新幹線のような名前はもういい」と言ったそうだ。たしかに「のぞみ」「かがやき」的なのはもういいだろう。「惑星」というのはよくわからないけど、「ジュピター」とかイメージしたのか。まさか「ビーナス」や「サターン」ではないと思うが。

政党名が揺らいでいるのは日本だけではない。僕の記憶ではイタリアの”Forza Italia”(フォルツァ=頑張れ)辺りからではないかと思うが、これも1994年。最近ではスペインでPodemos(英語のWe canの意味)という左翼政党が人気を集めているという。

なんでこうなったのか?とても単純に考えると、政治の世界で「主義」が消失したからだろう。クラシックな政党名は、そのあとに「~主義」とつなげることができるものが多かったのだ。

ところが冷戦が終わり、社会主義や共産主義がああいうことになってしまった辺から迷走が始まった。もはや新たな主義などない。そうなると、拠り所はなくなっている。

かくして「大地」「日本のこころ」とかだと、もはや有機野菜の食堂のようになってしまうわけだ。

ううむ。何か手がかりはあるんだろうか。 >> 主義なき時代の政党名の悩ましさ。の続きを読む