先日とある落語の会に行ったとき、マクラで都知事の話になった。

まあ、毒舌で鳴らす噺家だったんでケチョケチョンだったのだけれど、客席は大うけで「もっとやれ」という感じで、話している方が「マアマア」と抑えるくらいだった。まあ、止む無しをいう感じもする。

「パーティで政治と宗教の話をしてはいけない」というのは、けっこう昔から言われていることだろう。僕は、そんなパーティに縁がない頃に聞かされた。あと、祖父から教わった、パーティの心がけというのも思い出す。

それは「空腹でパーティには行くな」ということだった。たしかに、そうだ。

まあ、空腹で落語に行ってもいいかもしれないが、落語のマクラでも政治の話は難しいと思う。そもそも政治の話自体でシラけることも、十分にあるのだ。

そう考えると、女性が多い席で政治ネタをする人は少ない。年齢層が高めで男が多い時だと、時折マクラでふってくる。

そして、一番難しいのは、「それなりに人気がある政治家」の場合だ。

勘のいい噺家は、この辺りをちゃんと捉えている。そりゃそうだ。一定以上の支持率がある場合は、客の中にもそれなりの支持者がいる。そこを貶しても反応は鈍い。 >> 落語の客席でわかる政治家への「支持率」。の続きを読む



416jhPvryML最近はいろんな会社で、経営者をめぐる騒動が目立つ。昨日はベネッセのニュースが目立ったけれども、セコムの会長社長解任というのも驚いた。もっとも驚いたのはセブン&アイを巡る一件だったけれど、経営者を決定するシステムが変化していく過渡期にある中で、今後もこうしたことは起きていくのだろう。

『社長解任 権力抗争の内幕』という本が出ていて、これはさまざまな会社の経営実権をめぐるドキュメントだ。2月の出版で、東芝の騒動が最後に描かれるが、多くは昭和のケースである。住友銀行、関電、新日鐵あるいはフジサンケイグループなども取り上げられる。さまざまなトラブルのあとで、立ち直った企業もあれば、どこか引きずっている企業もあるのだろう。

それにしても「今とは時代が違うよな」と感じる点もあった。

1つは労働組合の存在感だ。いまとは比較にならないほどに大きい。ここまで経営に介入していたのかと改めて思う。

もう1つは、いわゆる「裏社会」とのかかわりだ。現在においてどうなっているかは何とも言えないが、想像以上に露骨な時代もあったのだと感じる。 >> 男の嫉妬が会社を揺らす。『嫉妬の世界史』の続きを読む



以前勤めていた会社の後輩にあたる、斎藤迅さんから「一瞬でやる気を引き出す38のスイッチソング」 を恵送頂いた。

カテゴリーを超えて様々な曲がリストにあって、それは音楽が人々を励ましてきた歴史の縮図のようだ。

その中で「ふるさと」についても書かれていた。本書には数少ない日本の曲だが、この詩にはちょっとした仕掛けがあり、そのことを僕は高校の先輩から聞いた。高野辰之 による有名な歌詞は次の通りだ。

 

兎追いし かの山

小鮒釣りし かの川

夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷

 

如何に在ます 父母

恙なしや 友がき

雨に風に つけても

思い出ずる 故郷

 

志を はたして

いつの日にか 帰らん

山は青き 故郷

水は清き 故郷

 

よくある話だとは思うが、子供の頃は「うさぎ美味しい」だと思ってた。昔の田舎ならそんなものだろう、と思ってたのだ。もちろん「ジビエ」など知るわけもない。 >> 「ふるさと」が誰にとっても名曲である理由。の続きを読む



冨田勲氏が逝去された。

多くのメディアの見出しに「シンセサイザー」という言葉が一緒に並んでいる。もちろん、シンセサイザー奏者としても有名であるが、作曲家であり、映画やテレビを中心にたくさんの作品を残した。

とはいえ個人的な記憶は「シンセサイザー」という未知の世界を拓いた人、というイメージが強い。ちょうど中学生の頃にアルバムが発表されて、幾度となく聴いていた記憶がある。

後になって、「新日本紀行」などのタイトルバックに名前を見つけて「あ、そういう人だったんだ」と思った記憶がある。失礼な気もするのだが、そのくらい「シンセサイザーの冨田勲」だったのだ。

今にして思うと、氏のシンセサイザーのアルバムは絶妙なポジションを突いていた。サウンドは斬新で、録音ならではのさまざまなテクニックが駆使されている一方で、その素材はおもにクラシックに求めている。

ホルストの「惑星」ムソルグスキーの「展覧会の絵」、あるいはドビュッシーの「月の光」などだが、いわゆる典型的で硬派なクラシックではない。誰もが口ずさめて、色彩感が強く、表題性の高い曲を選んでいる。

だから冨田勲のアルバムを聴いた人が、どのような音楽を聴いていったかというのも結構さまざまだろう。シンセサイザーの魅力に取りつかれた人もいれば、アルバムをきっかけにクラシック音楽を聴き始めた人もいるだろう。

強烈なインパクトで、実に広範な影響を及ぼしたと思うが、単なる「音楽アルバム」を超えた存在だったと思っている。

冨田勲のアルバムは、単なる編曲ではなかった。それは当時の聴き手にとっては共有されるべき「未来」のイメージだった。そして、それは地球の外へと広がっていた。当時の中高生にとっては、十分「妄想に値する未来」が感じられたのだ。 >> 冨田勲が感じさせてくれた、未来。の続きを読む



五輪の新エンブレムが決まった。まあ、万人が納得するデザインなどできるわけもないのだから、決まったものを大切に育てていくということだろう。それにしても、この選考で感じたのは、いわゆる「グラフィックデザイン」が転機、というより終焉を迎えているのではないか?ということだった。

一般的にグラフィックデザインというと、二次元上の作品を指すが、メディアも多様化ししているので、正確には「平面デザイン」と言った方がいいのかもしれない。紙を中心とした媒体を念頭に置いたものである。

当初の佐野研二郎氏の案は、類似性が問題になったが、個人的に感じたのは「グラフィックデザイン界の呪縛」が強いなあということだ。一方で、当時の審査員の顔ぶれを見ればあの作品が選ばれたことも理解できる。

僕が気になったのは、東京のTと、日本の日の丸についてのこだわりが強すぎるのではないか?ということだった。特にTの文字をモチーフにすると水平と垂直が強調される。それは、どうしてもスポーツの躍動性とは離れていってしまうように感じた。 >> 五輪新エンブレムで感じた、「平面デザイン」の終焉。の続きを読む