フジロック・フェスティバルが、ザワザワしている。

今年、政治団体の代表が出る、ということでネット上では疑問や不満が出てきた。その反論が出て、まあ収拾がつくわけでもない。みんな、いろいろ勝手に言っていて、それ自体がフェスなんじゃないかと。

僕は、最初に違和感を感じた人の気持ちがわかる。それは、「音楽と政治的メッセージ」云々という話ではない。毎年楽しみにしている、フェスの場に余計な風を吹かせないで欲しいんじゃないかと。だって、音楽ファンが期待してなかった人が出てくるんでしょ。

そのうちに、いろんな記事を見るようになったけど、可笑しかったのは「音楽はそもそも反体制」という説教記事だった。

ジャズもロックも、あるいは能もコミックもすべてのアートはそもそも反体制という有難いご託宣だ。もちろん、歴史的にはそうだろう。「若い人は知らないかもしれないけど」というお話だ。

ただし、それは「そもそも」の話だ。あらゆる音楽は聴衆と関係を結んでいく過程で、段々と変化する。当初は反体制・反権威かもしれないが、当然のように変わる。 >> 「音楽は反体制」という説教の息苦しさ。の続きを読む



IMG_1712ルイ・ヴィトンについての強烈な印象は、18年前のロンドンのホテルだ。

ちょうど今頃だったが、エントランスにフェラーリが止まっていて、それだけなら驚かないのだが、ナンバープレートがアラビア文字だったのだ。

聞いたところによると、中東からバカンスのご一行が来ているらしい。

やがて、一人だけ民族衣装に身を包み、他はスーツという「大名行列」がロビーを横切っていった。

そして、その列の最後に高く積まれたルイ・ヴィトンのバッグがワゴンに乗せられて静々と動いていく。これが「正しいルイ・ヴィトン」なんだな、とつくづく感じた。

ちなみに、この旅はダービーがきっかけだった。スペシャルウィークとボールドエンペラーのおかげで相当の収益を得たので、敬意を表して英国に行くことにしたのだった。

昨日、麹町の「ルイ・ヴィトン展」を見た。一貫したテーマは「旅」だ。そして、ルイ・ヴィトンの機能性と革新性を前面に押し出した展示だったと思う。 >> ヴィトンの旅、ヴィトンとの旅。【ルイ・ヴィトン展@TOKYO】の続きを読む



舛添都知事が辞めるそうな。

駒崎広樹氏が、『舛添さんを「セコいこと」で責めないで』というブログを書かれていたけれど、本質を突いていると思う。都政の問題は、もっと別のところにあるだろう。

それにしても、今回思ったのは、「じゃあ、誰がセコい知事を攻撃したのか?」ということだ。

まあ、単純に言うと、それは「もっとセコい人」だと思ってる。それは主に高齢者だろう。メディアやリアルでいろいろと観察していると、そう感じる。

都庁には3万もの抗議があったというが、僕の周辺では「それより、ちゃんと仕事しろ」という人が多かった。よく考えてみると、現役でビジネスに関わっている人はそう考える。よほど暇じゃなきゃ、都庁に電話しないし、「仕事してる人に迷惑だ」と思うでしょ。

まあ、平日のワイドショーとか見てるのも、リタイアした暇な人が多い。この手の世論なんてその程度だ。そして、マスコミはヒマな高齢者に迎合して、くだらない質問をする。もっとも、その答えも相当に酷いようだが。

そして都議が聞く「世論」も年寄り中心なわけで、あっという間に知事を追い込んでしまった。 >> セコい都知事を攻撃したのは、もっとセコい高齢者だったんじゃないか。の続きを読む



(2016年6月13日)

カテゴリ:世の中いろいろ

また、というか最悪の銃乱射事件が米国で起きた。

最近だとパリのテロでもそうだったし、いつも感じるのだけれど、銃撃で多くの人が亡くなった事件の報道は、しばしの沈黙を呼ぶ。

他のニュースを超えて、一瞬時間が止まって言葉を失う。2012年12月の小学校での乱射事件では、たまたま米国内にいたのだが、混乱と恐怖で画面が凍ったような感じになる。

大災害などもで息をのむ瞬間があるけれど、こうした沈黙ではない。少しでも助かるように、というザワザワした感覚だ。

ただし、銃の事件は何か違う。人が人を殺める。それも、短時間に大量の人々を、1人の人間が葬ってしまう。それは、銃という武器の特性かもしれない。

生から死へのプロセスが、あまりに短く瞬間的だ。命乞いも祈る時間さえないまま、この世から去って行く。そして、武器を持つ人間は、遠い距離にいることもできる。

歴史小説などを読んでいて気づくのだが、銃が登場した後とその前では、戦いの描写、ことに「落命の瞬間」の描き方が全く異なる。

一番わかりやすいのは、日本の戦国時代だろう。ちょうど、鉄砲が導入されていく過程にあるだけに、作者によって描写の味付けが異なる。考証の詳細はわからないが、やはり劇的な場面においては、槍や刀が登場する。

もっとも、吉川英治の三国志のように、英雄同士が刀で戦い「数百合を数えて」というのはかなり大袈裟だろう。ただし、その後も「剣豪小説」は成り立っても、銃だとなかなかそうはいかない。 >> 銃と沈黙。の続きを読む



4120R3EDRHLネット上でこんな見出しのニュースがあった。

子供が親を「呼び捨て」「ちゃん付け」 そんな親子は「気持ち悪い」か

5月23日のフジテレビ系「バイキング」で「子どもが親を名前やちゃん付け」で呼ぶことを許せるかどうか?というテーマだったそうな。

番組の視聴者アンケートでは3割ほどが「許せる」ということだが、教育評論家などは「好ましくない」という話だ。まあ、「どんどんやれ」というコメントにはならないだろう。

ただ、十代の若者が家族に対していだく感覚は結構前から変化している。「おばあちゃん、かわいい」みたいな言い方に戸惑ったという話も、15年以上前だったと思う。いま調べたら「かわいいおばあちゃんになりたい」みたいな記事が出てきた。

で、「家族をお互いにどう呼ぶか」というのは、言語学や日本語論の分野でも結構面白い。この議論を提示したのは、慶応義塾大学の言語学者の鈴木孝夫氏だが、「ことばと文化」はいま読んでも本当に奥が深い。

言語学の概略から文化論まで、まさに縦横無尽に語ってくれる。

1973年の出版で、海外事情の紹介などは、いま読むとやや時代を感じるが、論旨の骨格は太い。amazonの言語学カテゴリーでは1位である。 >> 「家族をどう呼ぶか」は日本語ならではの問題だった。の続きを読む