ずっと読んでいなかったのだが、たまたま内田樹氏の最近のブログを読んで、感慨深いものがあった。「なぜ安倍政権は勝ち続けるのか?」と題したエントリーだ。

氏によると、現在の状況は「政権末期の徴候」であるのに高い支持率を保持しているのが、疑問のようである。

「日本人が愚鈍になった」という仮説はとりあず棄却されたようで、いろいろと考えていく中で、こうした結論を書かれている。

「日本の指導者を最終的に決めるのはアメリカである」

そして、「ホワイトハウスが『不適格』と判断すれば、政権には就けないし、就けても短命に終わる」と書かれている。氏によると、このことは海外の有識者も指摘しているが、日本のメディアは黙殺しているということだ。

さて。

僕はこのような考え方に対して、あまり「ピン」とこない。というのも、こうした言説自体は決して新しくないからだ。典型的なのは、田中角栄がロッキード事件で逮捕された時の「解釈」じゃないだろうか。

あれはもう40年も前の話だ。詳細は省くが、角栄は米国に嫌われて、「斬られた」という話は幾度となく聞いた。ただ、それは「酒場の与太話」のようなもので、最近も似たようことを話している年寄りの酔客を見た。

「あれは、全部アメリカの陰謀なんだ」という、その姿は酒場の彩りとしては、まあそれなりに味わい深い。

でも、それを大学教授を務め、知識人を自負されている方が書くのは、味わい深いというか、少々濃厚過ぎて、微かな哀しさも感じないではない。 >> 内田樹氏の知性的な生き方が、味わい深い。の続きを読む



トランプが勝った、というよりも「ヒラリーが負けた」ことが気になり、それで思い出すのが9月9日の発言だ。

CNNの日本語サイトによると、“彼女は「非常にざっくりと言うと、トランプ氏の支持者の半数は私の考える嘆かわしい人々の部類に入る」と述べ、人種差別主義者、男女差別主義者、同性愛者や外国人やイスラム教徒に偏見を持つ人々だと主張した。”とある。

そして、それを「後悔した」というのが2日後のニュースだ。

この「嘆かわしい」というのは、英語だと何だったのか。同じニュースを報じるCNN英語サイトだと、’deplorables’というわけで、「悲しい」ようなニュアンスもあるようだ。

呆れかえって「ホントに、もう……」というニュアンスなのか。まあ、日本語的には「上から目線」という感じなんだろう。

「何か」あるいは「誰か」を貶す時に、直接その対象の悪口を言うのはともかく、ユーザーや支持者の悪口を言うのは基本的には禁じ手だ。

もう、まったく水準が違うんだけど今夏のポケモンGO! リリース直後に、テレビでやくみつるという人が、ユーザーを「心の底から侮蔑する」と言った。

愚かしい、と言ったそうだが、言ってる方が遥かに愚かだ。このことは、以前ブログにも書いた

今回の選挙では、「隠れトランプ支持層」がいたというが、こういうのは選挙ではつきものだ。僕は大学時代のゼミで選挙理論と予測を学んでいたが、「隠れ支持者」の多い政党については、その率を踏まえたモデルを作る、と教わっていた。

もちろん米国でもそのくらいのことは昔から分かっていたんだろうが、その隠れ度合いが読めなかったんだろう。

つまり「嘆かわしい」と言われた人は、そういう空気を読んで深く潜行したわけで、この辺りにヒラリーの限界もあったように思う。

まあ、大統領の選出には驚きがあったものの、米国の内外で強い「復元力」のようなものが動き出している。オバマや各国首脳は素早く動き、ウォール街も次の芽を探し出した。

一方で、日本では米国の状況を「惨状」のように嘆く人が多くて、それはまあ、あちらこちらに生息している「意識の高い人」だ。

そういう人の発言や書き込みを見ていると、支持者を見下ろしているようで、まさにヒラリーが言っていることとどこか重なることもある。

ああ、でもそんなことを言っている人の方が、よっぽど「嘆かわしい」ように思うわけですが。



71m1zmezrl昨日は「文化の日」だった。国民の祝日の由来というのは、法で決まっている。昭和23年、つまり戦後3年ほど経ったときに定めていて、趣旨も書かれている。わかっているようだけど、意外なこともあって春分と秋分は両方とも彼岸だが、法的には主旨が異なるようだ。

内閣府のサイトによると、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」だからまあ彼岸なんだけど、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」らしい。う~む、そうだったのか。

そして、文化の日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」というわけで、相当に抽象的だ。

僕は、「憲法公布の日」だと思っていて、「半年で施行できるものなのか」と感じた記憶がある。昨日のメディアも憲法がらみの調査などを載せていた。

一方で、この日は明治天皇の誕生日でもある。明治においては天長節(天皇誕生日)で、のちには明治節だった。

憲法施行の日程を決めるのに、明治節を意識したのだろうか?ネットで調べる限りで、ある程度手掛かりになるのはウィキペディアの記述だ。

「文化の日は(明治節に関わる)上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる」と書かれていて、根拠として昭和23年の国会の議事録がリンクされている。 >> 文化の日と明治と憲法と。の続きを読む



shibuya東京の街を歩いて、「昔はここに」という話になったら、十分に年寄りだと思うけれど、僕は20代の頃から結構好きで古地図の本などを買っていた。

ただ、時折「エ?」と思うことはもちろんあるわけで、先日『落陽』という朝井まかでの小説を読んでいたら、意外な文章に出くわした。

この本は明治神宮造営までのプロセスを追ったフィクションだが、関わった帝大の博士などは実名で登場する。当時の東京の描写もとても生き生きしていて引き込まれた。

そして、主人公たちが神宮の造営予定地に立つ場面があって、そこから見た風景が描かれる。

「淀橋の浄水場」はわかる。いまの新宿西口の高層ビルのあたりだ。「瓦斯蔵」つまりガスタンクも見当がつく。いまのパークハイアットだろう。あの敷地にはいまでも東京ガスの施設がある。

けれども分からなかったのが「渋谷発電所」だ。まず思いついたのが「電力館」なのだが、あそこは元々区役所があったところらしい。そして、検索してみると東京都交通局のウェブサイトに行き当たった。交通局はいまでも多摩川で発電するなど電気事業もしていることを初めて知る。

そして、「電気事業の歴史」というページの冒頭にはこうあった。 >> 「渋谷発電所」って、どこにあったんだ?の続きを読む



長時間労働で疲弊した社員が自殺したケースについて、会社側の責任を認めた司法判断が確定したのは2000年のことだ。この判決は会社の安全配慮義務などの責任を認めた画期的なもので、人事業務に携わる人はもちろん、法曹の仕事に関わる人にとっても重要なケースだった。

この時の被告となった会社は電通で、自殺した社員は新人の秋頃から勤務時間が増加し、入社2年目の夏に命を絶った。1991年のことだった。

それから四半世紀が経ち、昨日、電通社員が同様の状況で自殺して労災認定されていたことが明らかになったが、彼女も1年目だ。

今回の事件では、疲弊した彼女のツイートなどが残っていて報道もされているが、あまりにも悲痛だ。

この職場の実情についての推測などは一切するつもりはないが、改めて自戒をこめて一つのことを書いておきたい。

それは、単純だ。こういうケースについて、かつて長時間働いた経験のある人間が「自分はもっとたくさん、○○時間働いた」ということは全く意味がない。むしろ、苦しんでいる人をさらに苦しめるだけだろう。

たくさん働いても平気な人がいる。一方で、勤務時間に関係なく疲弊してしまう人もいる。実際に命を絶った人のケースはさまざまだ。だから労働時間の長さ「だけ」が原因とは限らない。理由が複合的なことも多い。

ただし、長時間労働が恐ろしいリスクになることはたしかだろう。睡眠不足は判断力を低下させて理性を失わせることがある。孤独な作業は、過度な心理的圧迫を招く。

そういう経験を乗り越えたとしても、それは長時間労働を正当化しない。

「自分は大丈夫だった」というのは勝手だ、という意見もあるだろう。しかし、そう言った言葉自体が、また見えない圧迫を生む。

そして、見えない圧迫こそが長時間労働がなくならない最大の原因だ。

「俺の若い頃は**時間働いた」「海外の連中だって無茶苦茶頑張るやつがいる」「私の睡眠時間はたったこれくらいだけど平気」

そういう言葉は、胸の中にしまっておこう。

それが、彼女の無念に対して、また同様の環境で苦しんでいる人に対して、まず僕たちができる最初のことじゃないだろうか。

【追記】ちなみに自殺については「自殺稀少地域」を分析したりレポートした下記の2冊がとても示唆的だ。職場にも応用できる話だと思うし、「稀少地域」の条件を満たしていない職場は多いと思う。こうしたアプローチはこれから重要になるだろう。