先日、自宅に近い駅を通ったら警察が非常線を張って歩行者の通行規制をしている。パトカー、救急車、消防車まで出ていて「ああ、事故なんだな」と思って見たら歩道にタクシーが乗り上げていた。
提灯でもカタツモリでもない「かまぼこ」のような行燈のクルマだ。
後でニュースを見ると、運転手と一名の通行人が負傷したようだが、この事故後の印象だと「幸運だった」と思う。駅前の信号にぶつかっているのだから、ほぼ一日中人が多いところだ。
運転手は50代ということで、その後の詳しい情報はわからない。最近はこうした事故が結構多く、原因もさまざまだ。そういえば、福岡の病院での事故も個人タクシーだった。
ただその光景を見ながら、ここ最近タクシーに乗る時は「個人」を避けていることを思い出した。
いま、仕事をする時は基本的に電車で移動する。ある程度の歳になると、タクシーに乗るのは「カネを払って脂肪を買う」ようなものだと思ったからで、歩くようにしてるからだ。
ただ、昨年前半のことだが、妻が脚を痛めた。膝が殆ど曲がらない状況で、杖なども使っていたこともあり、ちょこちょことタクシーに乗った。 >> 個人タクシーを避けるようになった理由。の続きを読む
定額ストリーミング、つまり「聴き放題」のサービスは、たしかに音楽の「買い方」を変える。だから音楽ビジネスが根っこから変わることはまあ分かる。ただ、単に消費行動を変えるだけじゃなくて、「音楽とのつき合い方」を変えるんだと思ってる。
それは「食べ放題」に似たところがあると思うんだけど、意外と議論されてない気もしている。
僕が音楽を聴いてきた経験の中で、まず起きた大きな変化はデジタル化だった。具体的には、CDの出現だ。いまでこそ「LPは音がいい」とか言われているが、それは相当のシステムが前提だと思う。
少なくてもCDが出た時は、そのクリアさに驚いた。それになんと言っても扱いが楽だ。そういえば、ちょっといいカートリッジを買ったばかりに、針を買い替えるために安い店を探していたことを思い出す。
そういう気苦労から解放されたわけだが、実際に聞き始めた時にも変化があった。好きな曲だけをスキップするようになったのだ。長いシンフォニーでも、間のアダージョを抜かしてフィナーレに行ったりする。
つまり、今では当たり前の「つまみ食い」が可能になったのだ。もちろんシャッフル機能もあって、それをうまく利用したのが「百人一首」のCDで、「アタマいい人いるな」と感心したことを覚えている。いまならアプリがあるのだが。
というわけで、この「つまみ食い」というのが「聴き放題」と「食べ放題」に共通する。食べ放題では、料理の順序については食べる方に任されている。
そこにシェフの意志はない。同じように「アルバム」に込められたアーチストの意志は、消費者によって再編集される。というか解体されてしまう。もちろんLPからカセットに録音して編集する人もいたが、一般的ではなかっただろう。
そして、「つまみ食い」ができるビュッフェでは「後悔」がない。味が好みかどうか分からなければ、ちょっとだけ食べればいいのだ。これもまた「聴き放題」と同じで、「なんか違うな」と思えば、別の曲に行く。
それだけである。
「食べてから後悔」も「買ってから後悔」も、たしかに悔しい。特に、学生時代に悩んで買ったディスクがスカだったりした時のことはよく覚えている。だから、今の学生はいいよな、と思ったりもする。
でも、敢えてひねくれたことも考える。実は「なんだあの曲」とか「どうしてあんな演奏?」のような疑問を持つことで、「本当にすごい音楽」のインパクトがあったんじゃないか。いっぽう「聴き放題」で育った世代は、そうした疑問を持つことはないだろう。
それが、どんな変化をもたらすかはわからない。
どんなに腕のいい料理人でも、食べ放題のビュッフェでその真価を出すことには限界があるだろうし、そのスタイルで最も満足度を高めるように料理を作ると思う。
同じように、「聴き放題」の音楽マーケットでは送り手のあり方もまた変わるだろう。
そこで、どんな音楽が生まれてくるのだろうか。ライブとの関係はどうなるのか。
食べ放題とはいえやがて「お腹いっぱい」になるように、聴き放題だって「時間いっぱい」になる。人間の時間は有限で、音楽を聴ける時間はその一部だ。
僕はそこまでして、自分の時間を音楽で埋めたいのか。しばらくはspotifyを定額で使うんだろうけど、いろんなことをついつい考えてしまう。
街を歩いていて「この辺にコンビニがないかな?」「カフェがあるかな?」という時に、スマートフォンなどの地図で辺りを調べる人は多いと思う。僕はiPad miniでグーグルマップを開く。
特定の店の名前で調べれば、水滴をひっくり返したようなアイコンだが「コンビニ」などカテゴリー名を入れると左側に虫眼鏡のようなアイコンが出てきて、近くのエリアのコンビニエンスストアのリストが出て来てくれる。
で、これを重宝している人は多いと思うのだけど「バー」を調べたことはあるだろうか。
グーグルマップで「バー」を検索すると、どうなるか?
この写真のように、「もしかして」とグーグル先生に疑われた上に、なんとも斬新な代案を提示してくれる。
「千葉県八街市八街は」
なんで八街?というか、そこはどこなんだ?と思って見ていくと、千葉県の佐倉の先の方だ。カインズがあって、「昭和ネオン千葉工場」があって、元駒場遺跡という所もある。ちなみに読み方は「やちまた」だ。
しかし、バーがある気配はない。というか、僕は「バー」を探したかったわけで、千葉に行きたいわけではない。
ずっと前からそんな状況だったのだけれど、まあ仕方ないんでバーに行く時は知ってる店に行けばいいやと諦めていた。八街はちょっと、遠い。
で、いきなり思いだして気になり、この画面をフェイスブックに投稿して「誰か教えて~」と呼びかけてみた。 >> グーグルマップで「バー」を検索すると、千葉県八街に案内される謎について。の続きを読む
タイトル書いてから思ったんだけど、麻雀とトランプというゲームの話をしたいのではない。
飯塚市長が辞意を表明した。平日の日中に副市長と賭け麻雀をしょっちゅうやっていたことが、地元紙に取り上げられたことがきっかけになったようだ。
この手のニュースは、普段だったら気にすることもないんだけど、昨年の発覚後にたまたま記者会見を見た。
その問答で驚いたのだけど、市長の齊藤守史という人が結構居丈高な感じなのだ。「カネを賭けずに麻雀する人がどれだけいるんだ」とか、記者に対して「つき合いをやめなきゃいけないのか」と逆質問して、その態度が相当に尊大で驚いた。
こういう記者会見だと、追求する記者が傲慢に見えることの方が多いのだけど、この時は市長の態度が「ちょっとひどいな」と思った。まあ、それが反感を買って、辞職につながったのだろうけど。
で、経歴を聞いて「あ、なるほど」と思った。この人は地元の調味料メーカーの経営者で、会長を務めつつ市長でもあったらしい。まあ、こういうのは地方では珍しくない。この市長は50歳で社長になり、その後18年間トップにいた。その間に、市長を10年やってる。まあ飯塚においては、逆らう人はいないんだろう。
ただ、こういう人は他人からの批判、しかも目の前で文句言われることに慣れてない。 >> 賭け麻雀の飯塚市長と、トランプの気になる共通点。の続きを読む
成人式のニュースを見ると、自分の時のことを思い出す。と書きたいところだが、殆ど思い出せない。出席してないし、関心もなかったからだ。どうしてたかな?と訊ねたりSNSに書いても、同世代の反応はそんな感じだった。
所属していたサークルの大イベントが年明け早々にあってそれどころじゃない、という個人的な理由もあるけれど、それほど熱心になるようなイベントではなかった気がする。
成人の日は、1999年までは1月15日だった。これがまた微妙な日程で、年末年始に帰省した人は、さすがに戻りにくい。成人式は原則として、現住所の自治体が主催しているもの参加するから、たとえば北海道出身の人が東京都大田区の成人式に出ることになる。
大学や勤務先が、故郷と離れていれば足を運びにくいかもしれない。
僕は都立高校に通っていたが、同級生の中には在学中に郊外に引っ越した者も結構いた。彼らにとっては、そういう町の成人式に行っても知り合いは殆どいないわけで、あまり出ようとは思わなかったのではないか。
だから、いまでも成人式が盛り上がるのは人の流動性が低いエリアなのだろう。自治体単位で式をおこなうのだから、「昔からの知り合い」がミッシリと住んでいる方が盛り上がる。代々にわたって家業を継いでいるような人がいれば、なおさらいいのだろう。
そう考えてみると、「20歳の居住地に知り合いがたくさんいる」という人は、どれだけいるのだろうか。もっとも、「友達はいなくても式には行く」人もいるだろうけれど、それでは盛り上がらない。
そして、中学から私立に通ったりすると、その時点で地域社会との関係は希薄になる。その上、先に書いたような「20歳までに転居」という人もいる。
成人式をいくら報道しても、新成人のリアルは見えない気もするし、ましてやその現象だけで「いまの若者」を語るのは意味がないように感じる。
そんなことをSNSに書いてたら、私立女子高などでは「成人の日の同窓会」をやっていて、そちらの方が盛り上がっていんじゃないか?という話があった。
都心のホテルなどでおこなわれていて、別室には母が集まるらしい。私立中高の濃密な感じから行けば、容易に想像はつく。
成人式の同窓会プランなどは、たくさんあるようだ。ただし、いろいろ調べてもそうした同窓会のことはよくわからない。私的な会なのだからニュースの対象にもならないから、メディアはみな公的な「成人式」ばかりを取り上げる。
でも、そこには映し出されない新成人たちもたくさんいるのだろう。
僕自身は20歳の時に何を考えていたのか?それを思い出すのは難しいが、読んでいた本は覚えている。こんなことを書いていて思い起こしたのは成田美名子の『エイリアン通り』(エイリアン・ストリート)というコミックだ。
ロサンゼルスの大豪邸に住む学生のもとに、フランス人留学生が転がり込んできて、イギリス出身の執事や日本人の娘と織りなしていくという、まあ身も蓋もない表現だけど「青春ものの一大傑作」だと思う。
そして、舞台は米国。当時はちゃんとした情報もないままに、半ば無理やりにも国外へと眼を向けさせられていて、その気になっていた。
それがいいかどうかは分からないけれど、たしかに「地元の成人式」に行く気分ではなかったのかもしれない。
ただ、このコミックは時代を超えた「芯のある」作品だと思ってる。