最近たまたま「会社を辞める人」の話を聞くことが多くて、なんとなく40歳前後だ。一方で、30歳前後の人はそういう姿を見て「やっぱりそういうものなのかなぁ」と思うらしい。
そう言うわけで、若い人からは「山本さんは何歳の時に辞めたんですか?」と改めて聞かれることも多いのだけど、これは忘れるわけもなく40歳の時だ。だいたい「ああ、やっぱり」という反応になる。適齢期に思われるのだろうか。
会社を辞めて独立する。その適齢期がいつなのかは、いろいろな説があって正解があるわけではない。
ただ、自分の経験からいうと「40歳」は悪くなかったと思う。「良かった」と言い切れないのは、他の年齢と比較できないからだけど、ちょっと理由を考えてみた。
まあ、いろんな意味で「人生の折り返し点」であり、いわゆる「人生の正午」だし、なんとなくキリもいい。起業するならもっと若くてもいいし、その方が有利なことも多いだろうが「独立」となると、ある程度個人のスキルや信頼も必要だ。
一方、50歳近くなると人によっては体力的な課題も出て来るだろう。
ただ、それ以外にも40歳辺りが「適齢期」だと思う理由がある。特に、僕のように企業に対してコンサルティング的にお付き合いする場合は、いいんじゃないだろうか。3つほど挙げてみよう。
■ 若くもありベテランでもある
会社員の現場は、だいたい20歳から60歳くらいの人で構成されている。つまり40歳と言うのは真ん中だ。仕事の発注権限を持つ年代の人からは「若い発想」が期待される一方で、トレーニングなどでは「先生」のポジションになれる。
つまり、企業を相手に仕事をするときに上と下の双方から「お願いします」と言われやすいのだ。場合によっては、若手と役員のブリッジ役になることもできる。
■ クライアントと一緒にキャリアを重ねられる
ということは、クライアントの組織の真ん中あたりに「疑似的に参加する」ことができる。そして、上の人が役員になったり、若い人がマネジメントに昇格するプロセスに伴走することができる。これは、体験してみないとわかりにくいかもしれないが、40歳というのは組織と相性がいいと思う。
■ もう一度「その先のキャリア」を考えられる
これは最近感じるのだけれど、40歳までは大学を出てから18年会社勤めで、そこから同じだけフリーランスをしても60歳までまだ時間がある。労働力人口が減少していく流れから考えると、ここでもう一度「次のこと」にトライすることも可能なのではないか。
一度会社を辞めて、それまでのスキルや経験で働いてみる。40歳スタートであれば「3つ目のステージ」を想定することもできるだろう。
というわけで、「会社を辞めて独立するなら40歳」というのは、有力な選択肢なのかもしれない。
※独立する場合はもちろん年齢だけではなく「このくらいのキャリアを積んだら」という目安があると思うが、それは「仕事でひと皮むける」というような経験があった方がいいと思う。「ひと皮むける」がどういうことなか?ということについては、まさにそういうタイトルの本があって、これはとても良くできたケース集だ。もっとも、ここでは「ひと皮むけていいマネージャーになってね」という趣旨で、「そろそろ辞めれば?」というわけではないのだけど。
最近は女性の就業率も上がっているが、一方で「専業主婦/兼業主婦」という言い方も根強い。でも「専業会社員/兼業会社員」とは言わない。これから増えるかもしれないが、今のところはあまり聞かない。
つまり、既婚女性が仕事をしていても、「主婦」を辞められないので「兼業主婦」と言うのだろうか?ということになる。
で、調べてみると「主婦」という言葉の歴史を研究した論文があった。実践女子大学の広井多鶴子先生が書かれた『「主婦」ということば』(リンク先pdf)だ。
詳細はそちらをご覧いただくとして、興味深いのは明治以降の「家政学の翻訳書」に「主婦」という言葉を与えたということだ。「主婦」という言葉は漢籍にはあったが、明治になるまでは一般的な日本語としては使われていなかったのだ。
しかし、段々と「家政」というものの啓蒙が広がった結果「主婦ということばは、この時期に、妻が家政担当者であることを明言することばとして成立した」(広井)というのである。そして、主婦という仕事は「女性としての素質、天性に基づく任務」(同)と位置づけられるようになったと論じられる。
もし、「主婦」という概念がなかったらどうだったのか?そう考えてみると、この言葉の持つ「拘束力」のようなものも見えてくる。主婦という言葉があるから「主婦の務め」のような概念も出て来る。「主婦」という言葉を冠した出版社が複数あるように、主婦という言葉は「こうあるべき」という謎の倫理観とセットになっているように思うのだ。
主婦に当たる言葉は、男性だと何になるのか?思いつくのは「主人」だ。先の論文によると、そのような対比で使われたこともあったらしい。
しかし、ちょっと考えると全く違う。たしかに「主人の務め/主婦の務め」という言い方は成り立つ。
でも「ご主人様」と言っても「ご主婦様」とは言わない。「主人が参ります」という表現はあるが、「主婦が参ります」とはならない。つまり二人称でも三人称でも代名詞にはならない。
どうやら「主婦」という言葉は人格を伴う個人を指すのではなく、「特定の役割」をする人を指していることになる。 >> 「主婦」という概念を疑ってみる。の続きを読む
昨日、競馬の大阪杯を見ていた。勝ったスワーヴリチャードに乗っていたミルコ・デムーロが恐ろしく大胆な騎乗をして、そのまま押し切った。
普段はネットの掲示板は見ないのだけれど、こういうレースの後とかだとついつい覗いてしまう。テレビの解説者ではなく、観ていた人はどう思うか気になるのだ。スポーツを観る人なら、そういう経験はあるんじゃないだろうか。
多くは、絶賛しているんだけれど、なかにはケチをつける人もいる。ああ、そうだ。こういうのを見るのが嫌なんで、掲示板とか見ないんだよなぁと思い起こして、見るのはやめた。
もちろん、誰もが絶賛するプレーというのはない。だから、異を唱える人がいるのはいいと思う。ただ、悪口を言うというのは、それほど難しくない。
時計を持ち出して「レース全体のレベルが低い」とか、「たまたま条件に恵まれた」とか、けなす方法はだいたい似ている。別に競馬には限らないわけで、フィギュアスケートなら「相手のミスに助けられた」とか、サッカーだったら、「偶然いいポジションにいただけ」とか、いくらでも言える。
まあ、ネット上で匿名でチクチク言うのが趣味なら、その程度で済むんだろうけれど、実際の社会にもこういう人は結構多い。人を貶めるのは好きだが、褒めることはしないというタイプだ。
今日から、社会人になった人も多いと思うけれど、そういう人には距離を置いた方がいいよ、と改めて言ってあげたいと思う。
>> 新入社員の皆さん、人を貶める先輩には気をつけよう。の続きを読む
もう20年ほど前であるが、とある経営者から「お題」を授かった。
それは、組織に関するもので、彼の独自の発想を具現化できないかというものだった。
こんな感じの話だ。
「組織っていうのは、いま野球型からサッカー型になろうとしている。いちいちプレイごとにサインを出すのではなくて、いったんゲームが始まれば選手が主体的に動く。つまりマネージャーは戦略に徹すればいい」
まあ、ここまではわかるが次が難しかった。
「でも、究極の組織はテニスのダブルスみたいなもんじゃないか。高度なプロ同士のチームならマネージャーは不要になる」
まあ、ジャムセッションや室内楽もそんな感じだろう。ただ、これを実際の組織に落とし込むのは相当難しい。というわけで、いろいろシミュレーションしたものの実現するには相当根っこから会社を変える必要があった。
まだ、僕は30代の会社員だったけれど、この頃からピラミッド組織へのアンチテーゼのようなものは増えてきた。海外からもそうした話は入って来て、指揮者のいないオーケストラとかがもてはやされた。
なんでこんな話を思い出したかというと『ティール組織』という本が話題になっていたからだ。この本の世評は高いようだけど、僕の周辺ではちょっと反応が違う。「既視感があるよな」という感じで、人によっては相当にけなしている。
これは、所属組織や年齢の問題ではない。実際に現場の組織改革に取り組んだ経験のある人は、この本について覚めている。
たしかにフレームには説得力がある。組織の進化をカラーチャートのようにして、鴨の羽色に喩えるあたりのテクニックはさすがだ。同じ素材も、ソースと調味料で最新のレシピになるということだろう。 >> 意識高い大人のお子様ランチ?『ティール組織』【書評】の続きを読む
昨日、会社を辞めるか迷っていた頃の思い出を書いた。
結局僕は辞めたけれど、それは「深い谷を飛び越える」ような感覚だった。マリオだったらやり直しはできるけれど現実は違うわけで、だからこそ踏み切れない人は多い。
ことに大企業に長く勤めるほど、谷を越えることは難しいだろう。
ただし、これからは多くの人がこの問題に直面すると思う。最近のメガバンクの方針が象徴的だけれど、「業績に関係なく人員削減」という流れが生まれてくるように思うのだ。
「人手不足だから売り手市場」という考えは甘いかもしれない。「今後も人手不足が続くなら、人手のかからないモデルにしよう」と考えるのが企業経営のロジックだ。
そこにAIなどの技術革新が加わって来る。
だから、大手企業に勤めている人ほど「いつか飛び出す」ためのシミュレーションをしておいた方がいいだろう。
では、出る人と出られない人にはどんな違いがあるのか?これは能力だけの問題だとは思わない。
で、敢えて言えば「どんな記憶に頼っているか」という違いじゃないかと思う。
僕自身を振り返ると、「想定外のことがあっても、どうにかなるだろう」と思ったから辞めた。それは、過去の人生で「どうにかなった」記憶の方が強いからだ。
ところが、多くの人は「頑張ったから、うまくいった」という記憶を頼りにしているようで、こういう人は会社を辞めにくいんじゃないか。
「どうにかなった記憶」の人だって、多分努力をしている。僕もそんな気がするが、人に説明しようとすると思い出せない。ただ、「運が良かった」話は思い出す。
「頑張った記憶」の人は、典型的には受験やらスポーツの記憶を頼りにする。仕事を始めても、同じような記憶を重ねていくようだ。そして「頑張って褒められた」という記憶もあるようだが、僕はそういう記憶がない。
でも、これからの社会は、というか既に今の社会は「どうにかなる」くらいで動いていかないと、うまくいかないんじゃないか。そして、日本は「頑張った記憶」に頼り過ぎていることが、いろんな問題の根っこにあるようにも思う。 >> 「大企業を辞められない人」の理由って何だろ?の続きを読む