新人の頃、お世話になっていた得意先の方が言っていたことが今でも印象的だ。

最近お忙しいですか?と尋ねるとこう答えた。

「忙しいならいいんです。いまは慌ただしいだけ。こういうのはいけません」

この方は外資系コンピュータ企業の物静かな方なのだが、時に大変に印象深いことをポツリとおっしゃるので、よく覚えている。

わざわざ「忙しい」と「慌ただしい」を使い分けている人は少ないと思う。その代わり、慌ただしいだけの人は、こんな言い方をしてる。

「いやぁ、いろいろバタバタしちゃって」

そう、「バタバタ」という表現。時には、物理的に「バタバタ」と音を立てる人もいるが、まさにこれが「慌ただしさ」なんじゃないかと思う。

たしかに、経営者などもの凄く忙しいはずの方はそんなに「バタバタ」していない。

いまにして思うと、「慌ただしい」というのは仕事の本質とは離れたようなことが多く、それに対して受け身で追われていることを言っていたんだと思う。一方で、「忙しさ」とはするべき仕事が多く、それをどんどん片づけなければならないが、ある程度主体性がある状況なんじゃないかと。

で、この「バタバタ」は自分の記憶では2000年前後から増えてきた記憶がある。どの職場でも人を減らした上にネットや携帯の普及したことも関係しているんだろう。 >> 「忙しい」と「慌ただしい」の違いについて。の続きを読む



まあ、その時期は会社によって違うけれど、今年の新入社員も配属されたんじゃないだろうか。「今年の新人のタイプは~」という記事もなくなって、まあ、あんなのは「今年のボージョレーヌーボー」と同じで、というかあれ以上に意味がないでしょ。

ブドウは気候で毎年変わるけれど、人の特性が毎年コロコロと変わるわけでもなし。まあ、それはいいとして。

職場にはいろんな人がいて、新人はもちろん若い社員はその「生態系」に溶け込むのに大なり小なり苦労する。肉食やら草食やら、いろんな人がいるわなんだけど、悩んじゃう若手の多くは「言葉」に引っかかってることが多い。

「こんなこと言われた」という言葉で、やる気になれば、鬱々としちゃうこともある。

意外かもしれないけど、「相手が傷つくかも」という覚悟で出された言葉は、結構後腐れがない。「オマエ、全然できてない!何、勉強してきたんだ」とか、大概それは事実なんで、反論しようもない。傷ついても治る傷だ。

ややこしいのは、先輩が「俺が上位だ」「私が先輩よ」ということを知らしめようする人たちかな。流行り言葉にもなった「マウンティング」みたいなの。

そんな人たちが使いたがる妙な表現がある。

「オマエ、あれ評判悪いよ」

という感じの言葉。「あのやり方は、よくないよ」と言わない。「評判悪いよ」と言う。いるんだよ、たまに。 >> 「オマエ評判悪いよ」とかいう先輩社員は、ダメだとおもうわけ。の続きを読む



4月になった。会社を離れて久しいけど、知っている学生が社会人になったりもするし、少しは気になる。以前は新入社員研修もやったし、その辺りの経験を本にも書いた。

いまでも、いろいろな会社で話を聞くけれど、新入社員を迎えた会社にとって「教えてもできない」ということで悩むところは意外と少ない。日本には、新卒一括採用の伝統があって「ゼロからできるようにする」ノウハウは相当に蓄積されている。

一方で、新入社員が「こんなことしかさせてもらえない」という不満を持つことは結構多い。「意欲的な学生を採用できた」、と思っている会社ほどそういう傾向が強いようだ。
意欲的である、ということはいろいろなことに関心を持ち、世の中の流れに敏感だ。同世代の中で、自分がどのくらいのポジションにいるのか?を考える。

会社が「1.2.3…」と順番に教育していくことが、とても遠回りに思えるようだ。ある程度しっかりした組織に入れば、それは当たり前なんだけど、なんかビジネスはもっとスピーディでズンズン進むものだと思っているらしい。

まあ、起業ストーリーとか、新規ビジネスとか、そういうお話が多いからね。

でも、仕事はまず「1つのこと」に集中しないといけない。それは、新入社員も社長も実は同じだと思う。 >> 新入社員も社長も、まず「1つのこと」から。の続きを読む



コピーライターの小霜和也君とは同期入社で、あまりゆっくり話す機会はないのだけれど、お互いが書いているものは読んだりしている。昨年『ここらで広告コピーの本当の話をします。』という本を出して、広く読まれている。その後、ネット上でもコラムを連載していて、先週末に掲載された「~最終章~おれたちの冒険はこれからだ!」を読んで、いたく共感したくだりがあった。

彼はコピーが持つ本質的なチカラが、ビジネスを変化させていくという視点で論じている。だから広告を「『作品』と呼ぶのをやめませんか。」という問いかけもしている。ビジネスモデルを変えなきゃ、今までの広告クリエイティブは厳しいんだということを明晰に語ったうえでこう書いていた。

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僕の言ってることは難しいでしょうか?
そういうことよりも、じつは古いコピーライター像を最も守りたいのは若者たちなんじゃないかと。
コピーライター目指すんだ!という思いが強い人ほど、「コピーライターとはこういうもの」という既成概念がこびりついてぬぐえないようです。
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この感覚はとてもよくわかる。それって、広告業界だけではなく、歴史の中ではよく見られてきた風景なんじゃないかと。アートや音楽の歴史を見ても、急速に潮流が変化していくと、必ずのように“反動”が起きる。古典への回帰、過去への憧憬。そうしたパワーは若い世代から発せられることが多い。

この構造自体は結構単純だと思う。若い人が「新しいもの」を志したら、まずその時代の大きな潮流に逆らおうとするだろう。そして、その流れを作っているのは、自分の親世代あたりになる。そこから振り子を逆に動かそうとした時に、その1つ上の世代に回帰しようとしていく。

ところが、時代の流れというのはそうそう甘くない。送り手であるアーチストが右だ左だと言ってる間に、受け手はどんどん違う方に行っている。潮流が変化しているのに、船の進路を議論していたら、結局は大海の中ではぐれるだけ。そうやって、衰退した芸術はたくさんある。

小霜君が指摘したように、広告を「作品」として語っている人々はまだまだ多い。でも、それは、過去のアーチストが内輪の議論に終始して、もっと大きな潮流を見落としたことと似ていると思う。

そして、新しいアートや音楽が受け手の支持によって広まったように、小霜君の主張もクライアント筋から高い関心と支持を得ているという話も、また符合する。

この現象は広告業界に限らない。かつて繁栄した業界ほど、まだまだ大きな「先人の像」がそびえている。ただ、その像が知らぬ間に亡霊になっていた、ということもまたしばし起きることなのだけれど。



使うと便利だが、結構危ないんじゃないかと思う日本語がいくつかあって、その一つが「時期尚早」というやつだ。

「あの案件の決裁どうなった」

「実は……」

「え?通らなかったの?」

「まあ、時期尚早ってことらしいんだよなぁ」

経営者やマネージャーにとって、これほど使いやすい言葉はないんじゃないか。「まだ、いいんじゃないか…」だと重みに欠ける。でも「時期尚早」は四文字熟語だ。ただ、「なぜ尚早」かはわからない。そして、いつが適切な時期かもわからない。でも、この便利な言葉で先送りにされて「ああ、あの時」!」みたいな案件は相当あると思うんだよね。

「時期尚早で否決された案件によって失った利益機会の総和」とか誰か計算してくれないんだろうか、と思う。結構あるんじゃないだろうか。

そういえば、子どものころからなんだか意味が分からない言葉に「背に腹は代えられない」という言い回しがある。背と腹は違うことはわかる。鰹のたたきを選ぶ時だって、違いは知ってる。でも、それが会話の中に出てくると、単なる「言ったもの勝ち」じゃないかと。

「部長!さすがにこのプランだとプレゼン勝っても利益が相当厳しいですよ」

「何言ってるんだ。背に腹は代えられないだろ!」

で、この場合プレゼンテーションに勝つことが「腹」なのかもしれないが、そもそもそんなこと誰も考えてない。これも切羽詰った時の、切り札だ。 >> いまどき「時期尚早」とかを耳にする会社ってどうなんだろう。の続きを読む