IMG_1266青山学院の講義は毎週火曜日なのだが、今週締め切りの後期試験を事務局に未提出だったので昼過ぎに立ち寄った。ちょうど昼休みでキャンパスがごった返していたんだけど、それにしても賑やかだなと思ったら、中庭ガウチャー記念礼拝堂前で箱根駅伝の優勝報告会をやっていた。

ちょうど原晋監督が挨拶をしていた。

「昨年は“わくわく大作戦”ということでしたが、今年はハッピーになりましたでしょうか!?」という感じで軽やかにスタート。レースを振り返って話を続けた。そして、最後に、「皆様に一言」と話しかけた。

「夢はかないます。皆さんも自分の目標を信じて、これからの大学生活、そして卒業後も青山学院の卒業生として誇りをもって日々精進して頑張ってください」

とくに飾った言葉ではないけれど、なんだかスッと心に入ってきた。 >> 駅伝優勝報告会~青学の原監督が語る「夢と誇り」。の続きを読む



※このエントリーには「スターウォーズ・フォースの覚醒」に関するネタバレがあります。閲覧の際はご注意ください。

スターウォーズの最新作を見た。作品にはいろいろな意見があるだろうが、僕としては十分に楽しめた。しかし、気になるのは共和国軍の人材と組織である。今回は相手の杜撰さに助けられた面もあるが、このままでは、どうなるのか。

というわけで、年末年始の休みを利用して共和国軍への提案を考えてみたので、拙速な感もあるが、説明したいと思う。

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SW1まず、最大の問題は将来を嘱望されている若手の流出ではないでしょうか。アナキンのダークサイド転落という痛恨の事例があるにも関わらず、今回も同様の状況が混乱を拡大させています。

これは、コア人材ともいうべきメンバーのモチベーション・コントロールの問題でもあり、若年時からの業務付与から見直す必要があります。

また、「フォース」に代表されるスキルの属人化も問題かと思います。たしかにこの能力には生得的な面が強いものの、その保有者の発掘についての組織的対応が遅れています。そして、その能力を発達させるための体系もありません。

そのように考えると、現在の課題はこと人材面だけにとどまらず、組織ビジョンに関わるのではないかと思われます。果たして、今後の共和国軍はどうあるべきか?という方向性がリーダーによって明示されていないことが、若年層の離反の潜在的要因かと思われます。

そこで、本日はこのような現状を踏まえた上で、共和国軍の将来についてご提案申し上げます。 >> スターウォーズ「共和国軍へのご提案」の続きを読む



職人技というのは、日本人が大好きな世界のようで、テレビなどでもよく取り上げられる。先日、高層ビルの窓掃除をする「ブランコ師」が出ている番組をやっていたが、JR東日本の東京駅折り返し7分間で掃除するチームの話は見聞きした人も多いんじゃないだろうか。

もちろん掃除だけではなく、この職人技の世界は日本の伝統芸術への憧れと、昭和へのノスタルジーが一体となっていまもなお魅力的だ。

この手の世界を取材して、外国人が“Oh!”と驚けば、まあそれなりの番組ができる。この手の職人技は、誰もができるわけではないけれど、日本人の心の拠り所になっているところもあるのだろう。

でも、職人技信仰って進歩を妨げている面もあると思う。窓拭きだって「じゃあ自動化すればいいじゃん」とか、「そもそも拭かないでもいい窓は作れないのか」という発想から新しいことは生まれてくるんじゃないか。

自動運転やドローンもそうだし、マイナンバーなどの制度でもやたらと「危険じゃないか」という話が先行しやすいのは、「過剰なリスクゼロ志向」と「自動化への懐疑」がセットになっているように思う。

その一方で印鑑登録制度のような、江戸時代から続くシステムが温存されている。

そして、自動化への懐疑は、職人技への憧憬と表裏一体になる。そりゃ下町ロケットは上手なインサイトを突いているわけだ。

もっとも、高度成長期はどんどんオートメーション化を進めてきたわけだが、ここにきて職人賛美が受けるのはどうしてか? >> 「職人賛美」は進歩を遅らせるのか?の続きを読む



落語の小咄。与太郎に、こんな風に行って、ちょっとその場を離れた。

「ちょっと、俺のこの荷物見ておいてくれ」

で、帰ってみると荷物がない。

「ちゃんと、見てたのか?」

「うん。知らないオジサンが持ってた。ちゃんと見てたよ」

と、ここまでひどくはないけれど、会社勤めの中には「自分の仕事を限定したがる人」が多い。これは単に「余計なことをしたくない」ということもあるかもしれないが、「余計なことをすると叱られる」という面もある。

一方で、うまくいっている会社の話を聞くと、この辺りが違う。単に自分の仕事をやっているのではなく、最後まで「やり切る」人が多い。

製品の開発者がマーケティングなどの売り方まで考えていく。あるいは、営業が開発に提言して、最後まで伴走する。バイヤーが販促まで見通している。

ところが、往々にしてこれは領空侵犯となる。だからうまくいってる場合は、トップかそれに準じる人が、思い切ってキーマンに裁量権を与えて「やり切らせる」ことが多い。そうした企業では、オーナー経営だったり、そうでなくてもトップダウンが強いようだ。

対照的だが、やたらと「アサインメント(assignment)」という言葉を連発していたとある大手企業の部長がいた。「割り当て」ということだけど、何かにつけて、「それは君たちのアサインメントか?」と言う。つまり、っ込んだ提案に対して、やたらと警戒するのだ。 >> 「やる」と「やり切る」の違い。の続きを読む



最近はあまり聞かないな、と思っていた言葉に「生きにくい」とか「生きづらい」というのがあったけど、少し前にとある女優のインタビューで見た。

上野樹里なんだけど、「日本は生きづらい」という見出しで読んでみると、別に日本社会の問題を指摘してるわけではない。自分が有名になり過ぎていろいろ神経を使ったというだけの話だった。彼女は海外で映画出演しているので、そのように思ったんだろう。

で、これが一部でいろいろ言われているそうだけど、まあそのことじゃなくて、この「生きにくい」「生きづらい」ってどうして言われるようになったんだろうか。

感覚的には、いわゆる「格差」が広まったといわれるここ10年くらいではないかと思う。ただし、こればかりは個人差もある。性格や環境も影響するので、「2000年代初頭の日本」の問題なのか、あるいはそもそも人が生きていく上で付きまとうことなのか?ということが気になるのだ。

とりあえず、ここ最近の日本で起きていることだとすればなせだろうか?たとえば若年層が未来に希望が見出しにくいとか言うこともあるだろう。また、何か言葉を発するとすぐに叩かれて「空気読め」と言われるような「一億総姑社会」のようなことも背景にあるかもしれない。

一方で、自分自身を考えると「生きるのは大変だ」と思ったことはあっても、それは自分の問題だから自分でどうしようか?と考えてきた。生きづらい「社会」がそこにあるのではない。うまく生きていけない自分がいる、という認識だった。 >> 「生きにくい」とか「生きづらい」とかを疑う。の続きを読む