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海外ミステリーの名作と言われるもののほとんどは、英国と米国を中心とした英語圏の作家たちで占められてきた。フランスやドイツの作品にも面白いものはあるが、やはり英米が中心だ。そして、いわば典型的幾つかのスタイルを生んでいる。
ホームズに端を発する名探偵、またはハードボイルド、あるいは警察小説、そしてスパイものやアクション、さらには心理サスペンスなどなど。そういった中で、知らず知らずのうちに英米の文化とミステリーは密接に結びついている。
ハードボイルドの主人公がキッチンでベーコンを焼くのはいいが、キッシュを作ったりはしない。007のようにカクテルを飲むのはいいが、スパイが老酒では困る。冷めたピザだから張り込みの小道具になるのであって、ワインを飲みながら石窯の焼き上がりを待つのではない。
だから、英米圏以外のミステリーはそれだけで、ちょっと気にかかる。しかし、ドイツやフランスで大評判になった作品も実際に読むと「?」ということが多い。やはり英米は層が厚いのだ。
大きな流れの変化は、あの「ミレニアム」(スティーグ・ラーソン)だろう。スウェーデンを舞台にした全6巻の大作は、内容も素晴らしいがそれ以上に北欧の作品世界が印象的だった。風俗から政治に至るまで全く不案内な世界だけに、それ自体を味わい、異国を旅しているような楽しさがある。
そういうわけで、デンマークの作品というのはそれだけで気になっていた。この「特捜部Q」はシリーズもののようで、まずは「檻の中の女」を読了した。既に、第2作も訳されており、評判も上々のようだ。第1作も、なかなかに楽しめる仕上りだと思う。犯行を巡る構造についての意外感は薄いけれども、エンタテインメント小説としての出来は十分だ。
今後の期待も含めて、おすすめできる小説だと思う。
ちなみに僕が気になったのはデンマークの年金だ。やたらと「まだまだ年金暮らしには」などの話が出てくるのだが、どうやらデンマークの年金生活は、魅力的なのだろうか?調べてみると、北欧流の高福祉・高負担のようだが、それも曲がり角を迎えているらしい。
そういうことがついつい気になるのも、普段読まない国の小説をよむ楽しみだと思う。



【書評】ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること
ニコラス・G・カー 篠儀直子訳
青土社
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「この本はネットを糾弾し、ネット以前の世界へ戻ることを推進する本ではないかという性急な推測が、タイトルだけを見た時点ではなされがちであるかもしれない。」
訳者あとがきで、このようなことを書かねばならないこと自体、この邦題は訳者にとって不本意だったのかもしれない。
この本のベースになった論文が”Is Google Making Us Stupid?”であり、これはまさに「グーグルでわれわれはバカになりつつあるのか」という感じではある。しかし、この本の原題は”THE SHALLOWS”だ。「浅瀬」という意味から転じて、「浅薄な」という意味合いの言葉だ。
タイトルの原題のことを長々書いても仕方ないと思うが、どうしても「ネット・バカ」という邦題で誤解されているような気もする。この本は。決してネットを糾弾するほんではないし、単純なメディア論でもない。
人は情報からどのような影響を受けてきたのか。その影響は、メディアの形態によってどう変わるのか?ということを問いかけている本である。
インターネットが人の思考自体を変えてしまうのか?というこの本の問いかけ自体は、自然なもののようであるが、あまり正面切って論じられてなかった。しかし、それを考えるのに「紙の本とウェブ」のような比較論自体が実は「浅薄」であることを、この本は教えてくれる。

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(2010年7月14日)

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SF作家のジェームス・P・ホーガンが亡くなったというニュースの見出しを見た時、「まあ、そういう歳だからな」と勝手に思っていた。むしろ、「まだ存命だったんだ」という気持ちだったほどだ。
記事を見て驚いた。まだ69歳だったのだ。
代表作「星を継ぐもの」は1977年の作だという。30代半ばであれだけの作を書くということ自体は、別に驚くことではないと思うのだが、なぜかもっと昔の大家の作品という感覚があったのだ。ストーリーが骨太でロジカル。かつ登場人物に落ち着きがあるので、僕が勝手に思い込んでいたのだろう。
ホーガンは続く「ガニメデ星の優しい巨人」「巨人たちの星」などを一気に読んだ。SF独特の大胆な設定が、最終的にカチリと収まる。破天荒ではないけれど、読後に「希望」を感じる。とても優れた小説だと思う。
この夏休みに再読してみようかな。



池田紀行さんより「キズナのマーケティング」を献本いただいた。 ソーシャルメディアマーケティングの思考と実践がバランスよくまとまっている。「今」を切り売りする本が多い中で、「過去と今と未来」へのラインが描かれている。そんな印象をもった。 個人的に一番気になったのは、最後のところだ。「これから、真の人間マーケティングが始まる」ということに尽きる。 別に今までは「非人間マーケティング」だったというわけではない。しかし、この15年ほどはテクノロジーの波の中で、マーケティングに関わる人がいろんなことを見失っていたと思う。自分自身を振り返ってもそうだ。 少し長い眼で見てみよう。1980年代から、広告表現はある意味の「全盛期」を迎えた。表現自体が一人歩きして、アートとしてもてはやされた。この時代をメディアとの関連で見ると興味深いことがわかる。 75年ににカラーテレビの普及率がほぼ90%を越えて、80年までにほぼ100%に達する。そして、テレビと新聞の広告費が逆転したのが76年。それ以降、テレビと新聞の広告費の比率は35:30くらいで安定する。 テレビがメディアの王者として磐石になり、新聞も一定の影響力を保つ。表現のインフラが安定したことは、二重の意味でクリエイティブの隆盛に影響した。1つはクリエイターが、表現自体に専念できること。もう1つは広告代理店の経営が安定して、コミッションの収益により、クリエイティブの収益性を補完できたことだ。 この安定は90年前後に大画面テレビが登場(”画王”とか覚えてますか?)することで隆盛を迎える。 やがてバブルの崩壊とともに、メディアの変革が起きる。1995年はマイクロソフトの新OSとインターネットがインパクトをもたらした。新世紀に入る頃にブロードバンドや携帯からのネット接続の時代になった。 このように振り返り80年から「メッセージの15年」「メディアの15年」を経て、「次の15年」の境界線に立っているのかな?と考えると「真の人間マーケティングが始まる」というのは納得感が高いのである。 ことさらメッセージとメディアを分けることは、違和感もあるだろうけど敢えてこう書いた。実際にマーケティングや広告関係者の関心には偏在があったと思うし、そもそも広告代理店の組織が分化を放置していたところもある。 あとは、人の問題だ。自分の領域を固定しないで飛び出て行く人どうしが、何かを生む。まずは自分自身という人間を「拡張」しなくてはいけないのだろう。 池田さんの本には、そのヒントがたくさん詰まっている。