本を読むのは好きなのだけれど、あまりこまめに書評を書いてみたり、記録をとっていなかった。ただ今年から、ちゃんと読了した本だけを記録してみた。アマゾンのリストにもさすがに多くなってきたし、まあタイトルだけで一覧してみたいし。
3月16日までに読んだ本が29冊で、新年から11週。別に年間何冊とか目標立てていないし、まあこんなものだろうか。
もっとも、仕事のリファレンスだと、さらにいろいろと加わるが。
というわけで、備忘録的に読んだ本の記録。
「紙の世界史」は、文字とおり紙と人とのかかわりを追った本。インターネットの登場を「グーテンベルク以来」という言説が増える中で、印刷革命を扱った本は注目されるが、この本は「紙」に特化している。どちらかというと、ある種の素材産業史のような面もあるが知らなかったことも多い。また日本の和紙の価値もよくわかる。
「近くても遠い場所」は、現在の日本に「過去の痕跡」を探る、という試みの一冊。エッセイともいえるけど、ある種の研究書でもある。米軍の占領の痕跡から、江戸時代の風俗の残滓など、日本のあちこちらから「過去への遠足」を試みた本だ。著者の木下直之氏は、少し前にタモリ倶楽部にも出演したが、その時の内容はこちら。
このころはまだ正月休みで、その後に読んだ「さよならの手口」「静かな炎天」は、若竹七海の近年のミステリー。その面白さは、こちらに書いてある。デビュー作の「ぼくのミステリな日常」もあらためて精緻だ。 >> 最近読んだ本など。【2017年1月】の続きを読む
会社員が同僚とメシを食いながら、「仕事」の話をしたりするときには幾つかの階層のようなものがあると思っている。
1つめは、「職場の話」だ。その場にいる人が知っている人と、その振る舞いについてなので、新人からベテランまで中身は違ってもスケールとしては似たようなもの。これは、会社以外でも見られる。
2つめは「ビジネスの話」だ。90年代後半くらいに、「最近の会社員は“うちの課長は”という文句ではなく“うちの社長は”と言いたがる」と言っていた評論家がいたけれど、たしかにそうだろう。
職場の話から、階層が変わったのだ。それは、現在ではむしろ会社員同士の話題の定番かもしれない。
そして、3つ目は「経済の話」になるはずなのだけれど、ここになるといきなり怪しくなる。たとえば「黒田日銀の政策の是非」などを誰かがうっかり言い出したらどうなるか。先ほどまで、自社の社長をいろいろ言っていた人も、大概はいったん言葉に詰まるんじゃないだろうか。
「まあ、さすがに手詰まりなんじゃないの」
とか言うかもしれないけれど、そんなのは誰だってわかる。手札があれば、なんかもうちょっといろいろやるだろう。 >> タイトル通りの素晴らしい一冊「ビジネス現場で役立つ経済を見る眼」【書評】の続きを読む
というのも、そもそも定義がわかったようでわからない。そう言われている類いの小説を何冊か読めば肌で感じることはできる。しかし、これがまた興味のない人にとっては、えらく縁遠いらしい。
簡単に言うと、どこまでいっても「わざとらしさ」がつきまとう。それが小説の魅力だと思う人もいれば、リアリティがないという人もいる。
まあ、そんなものは小説の根源に関わる論争で深入りする気はない。ただ、日本人が日本を舞台にしてハードボイルドを書こうとすれば、どうしてもこの「リアリティ」のことを考えなきゃいけないだろう。
ハードボイルドは、アメリカ生まれだ。ヘミングウェイの作風もそれに近いかもしれないし、映画の「カサブランカ」もそうかもしれない。しかし、小説しかもミステリー仕立てなら、チャンドラーの作風が典型だろう。
渋い男が、カッコいい台詞を吐き、酒やたばこの小道具にもこだわる。そして事件はいつもほろ苦い。
そして、日本に「移植」すると、どこかギクシャクする。そのギクシャクを承知で成功した1人が原尞だろうか。
でも、時代は変わった。いつしかハードボイルド的な世界が日本だけでなく米国でも希薄になったような気もする。
そんな中で、若竹七海の「葉村晶」のシリーズは、このリアリティ感が絶妙だと思う。 >> いまの日本だから面白い、若竹七海のハードボイルド。の続きを読む
成人式のニュースを見ると、自分の時のことを思い出す。と書きたいところだが、殆ど思い出せない。出席してないし、関心もなかったからだ。どうしてたかな?と訊ねたりSNSに書いても、同世代の反応はそんな感じだった。
所属していたサークルの大イベントが年明け早々にあってそれどころじゃない、という個人的な理由もあるけれど、それほど熱心になるようなイベントではなかった気がする。
成人の日は、1999年までは1月15日だった。これがまた微妙な日程で、年末年始に帰省した人は、さすがに戻りにくい。成人式は原則として、現住所の自治体が主催しているもの参加するから、たとえば北海道出身の人が東京都大田区の成人式に出ることになる。
大学や勤務先が、故郷と離れていれば足を運びにくいかもしれない。
僕は都立高校に通っていたが、同級生の中には在学中に郊外に引っ越した者も結構いた。彼らにとっては、そういう町の成人式に行っても知り合いは殆どいないわけで、あまり出ようとは思わなかったのではないか。
だから、いまでも成人式が盛り上がるのは人の流動性が低いエリアなのだろう。自治体単位で式をおこなうのだから、「昔からの知り合い」がミッシリと住んでいる方が盛り上がる。代々にわたって家業を継いでいるような人がいれば、なおさらいいのだろう。
そう考えてみると、「20歳の居住地に知り合いがたくさんいる」という人は、どれだけいるのだろうか。もっとも、「友達はいなくても式には行く」人もいるだろうけれど、それでは盛り上がらない。
そして、中学から私立に通ったりすると、その時点で地域社会との関係は希薄になる。その上、先に書いたような「20歳までに転居」という人もいる。
成人式をいくら報道しても、新成人のリアルは見えない気もするし、ましてやその現象だけで「いまの若者」を語るのは意味がないように感じる。
そんなことをSNSに書いてたら、私立女子高などでは「成人の日の同窓会」をやっていて、そちらの方が盛り上がっていんじゃないか?という話があった。
都心のホテルなどでおこなわれていて、別室には母が集まるらしい。私立中高の濃密な感じから行けば、容易に想像はつく。
成人式の同窓会プランなどは、たくさんあるようだ。ただし、いろいろ調べてもそうした同窓会のことはよくわからない。私的な会なのだからニュースの対象にもならないから、メディアはみな公的な「成人式」ばかりを取り上げる。
でも、そこには映し出されない新成人たちもたくさんいるのだろう。
僕自身は20歳の時に何を考えていたのか?それを思い出すのは難しいが、読んでいた本は覚えている。こんなことを書いていて思い起こしたのは成田美名子の『エイリアン通り』(エイリアン・ストリート)というコミックだ。
ロサンゼルスの大豪邸に住む学生のもとに、フランス人留学生が転がり込んできて、イギリス出身の執事や日本人の娘と織りなしていくという、まあ身も蓋もない表現だけど「青春ものの一大傑作」だと思う。
そして、舞台は米国。当時はちゃんとした情報もないままに、半ば無理やりにも国外へと眼を向けさせられていて、その気になっていた。
それがいいかどうかは分からないけれど、たしかに「地元の成人式」に行く気分ではなかったのかもしれない。
ただ、このコミックは時代を超えた「芯のある」作品だと思ってる。
昨年は、あちらこちらの舞台に行って、勘定してみたら64回だった。
クラシックのコンサートが一番多く、あとは落語や能、たまに宝塚のミュージカルなどに行く。映画館は一度も行かなかったが、その前年がスターウォーズの1回きりだから、まあそんなものだ。
ただ、何となく興味が変わってきた気もする。音楽だと、オーケストラもいいけど、ピアノソロや室内楽に足を運ぶようになった。オペラは減ったが、能には月2回くらいはコンスタントに通う。
大きな音が億劫になったのかもしれないが、より抽象的なものに惹かれている気もする。殊に能などは、抽象性が高い。
だからだと思うが「難しくないですか?」と聞かれることが多い。たしかに簡単ではないが、じゃあ何が面白くて観に行っているのだろう?と考えてみた。
実は、能の抽象性というのはたしかに「わからない」ところがある。多くは夢幻能という形式だが、そこでは「何らかの霊が降りてきて舞をする」ような展開がある。哀しみとか憂いのようなものはあるのだが、そこであの面だ。実際の表情を見せないことで、想像をしていくことになり、たしかに「わかりやすい」とは思えないだろう。
しかも人の霊ならまだしも、先月観た『遊行柳』などは「柳の精」が舞うのだ。もう、どう考えればいいのか。 >> 分かりやすいコンテンツって、実は不自由なんだと思う。の続きを読む