GoogleのCMが流れている。androidをテーマにしたもので、笑顔の人々のシーンをつないで、間にキャラクターが入るこのCMだ。(リンク先Youtube以下同)
そういえば、こういう感じのCMって昔からあったし、また増えているような気がする。いわゆる「スライス・オブ・ライフ」の1つだろう。ただし、特定の人の暮らしを切りとるのではなく、短い時間でいろいろな人のカットをつないでいく。
iphoneなども、こうした感じのものが多い。たとえばスポーツにフォーカスしたこちらのCMなども、基本構造は同じだ。
そして、facebook。「友達」をストレートに前面に出したこのCMも結構目立っていた。
こういう企画が通る背景はいろいろあるんだけど、実は結構理屈っぽい作りになっている。android、facebook、iphoneなどが何らかの「課題解決に役立ってますよ」というメッセージなのだ。
なにも、課題解決なんて大袈裟に感じるかもしれないが、その象徴が「笑顔」だと思う。そう考えると、表現のトーンは異なるけれど「私たちのサービスを使えば幸せになれますよ」という点では、根っこは同じ。「こんな時にこれ」という理屈で、積み上げっていったことで、ああいう作りになるわけだ。 >> googleやfacebookのCMに溢れる「笑顔のコラージュ」の続きを読む
高校野球の女子マネージャーが、たくさんおにぎりを作ったら、ネット上で非難されるという騒ぎがあったそうな。
で、この元の記事を見た時に僕が改めて感じたのは、まあなんと「日本の青春の原型」って強いんだなぁということだ。
太陽、青空、汗、涙。スポーツと恋愛のこうした図式ができたのはいつ頃からなんだろうか。
ちゃんと検証したわけではないけれど、1つ気になるのは「タッチ」だ。今の大学生と話していても、タッチがどんな話かを知っている人は多い。「野球」をテーマにして、発想法のトレーニングをすると、イメージの核の1つは必ずと言っていいほど「タッチ」だ。
今でも覚えているけれど、大学1年の時に友人が「大変だ~」と言ってたまり場にやってきて、それが何かというと「和也が死んじゃったよ」ということだった。ちょうど連載中だったけど、皆で相当驚いた記憶がある。つまり30年前以上のこと。
それから30年にわたって、相当の再放送があったせいか、あのストーリーは「青春の原型」として相当影響があるんじゃないかと思ってる。
一方で、テレビCMも、こうした青春の原型を再生産している。大塚の「マッチ」、カルピスウォーター、シーブリーズなどなど。女子の方がちょっと積極的になっているというシチュエーションが目につく。部活も定番だ。マッチでは、男子は野球部だし。
これもまた30年くらいにわたって続いてきた夏の既視感。でも、どうなんだろう。
とある広告会社のクリエイターが、新人を預かるという話になって、一体何から教えようかというので、まあいろいろ話して「コピーから入ったら」ということで一致した。
まずは、キャッチコピーをたくさん書いてみる、というわけだ。
コピーライターの仕事って、大変に学びが多い。コピーを書くというのは、コピーライター以外の人でも、トレーニングとして有効だと思う。
コピーライターの仕事は、結構誤解されている面もあるかもしれないけれど、最大のメリットは「戦略と戦術を、両方考えられる」ことだと思う。
というか、最近つくづくそう思うようになった。
コピーで、まず考えることは「切り口」だ。つまり、「戦略=どこで戦うか」ということ。
この場合、商品に決定的なUSPがあれば、それを伝えるだけで足りる。「スプーン一杯で驚きの白さ」とか、携帯電話の「0円」とか。こうした切り口は、企業の戦略に寄り添っていく。スマホもいろいろ出てきたから「大画面でいくか」となれば、コピーも基本的には「画面の大きさ」が基本線だろう。
ところが、製品の差別化が困難になってくると、同じフィールドの中で「戦術=どう戦うか」ということになっていく。そうなると、コピーとしては“表現”が求められる。語尾や、言いまわし、あるいは会話にする…などいろいろ工夫する中で、買い手が「自分に近い」と感じるような言葉を考えていくわけだ。
こう書けば何となくお分かりかと思うが、戦略レベルで決定的に差別化できれば、コピーの役割は背景へと去っていく。相当シンプルになるはずだ。
気になるCMを見た。
「フラット35」のCMだ。誕生日に帰って来るお父さんを、妻と娘が待っていて、一緒にケーキを食べる、という書いてしまうとどこも気にならないようなCMなんだけど、コピーが、気になる。
「家を持ってから、私たちはもっと家族になった」
そういう感覚になる人がいるのだろう、ということは理解できる。でも、家を持てなければ、「これ以上家族になれないんですか」というツッコミをしたくなってしまった。これ、「差別化」を通り越して、単に「差別的」なコピーなんじゃないか。よく通した、というかそういうのをクライアントが望んだんだろうな。
広告主は住宅金融支援機構で、昔の住宅金融公庫。つまり公的機関だ。そんなにまでして、持ち家に誘導したいんだろうかと、勘繰りたくなる。
ちなみに、昭和の時代には「自民党の持ち家政策は自党支持を増やすため」という歳背伝説があった。
つまり左翼政党の支持者も自分の不動産を持てば保守的になるから、という話である。たしかに、一時期は社共が政権を獲れば土地が国有化されると思っていた人もいたのだ。
まあ、それはともかく、持ち家か賃貸かっていうのは人の自由でしょ。最近の土地白書でも持ち家志向が低下している、っていうデータが出たばっかりで、そういうタイミングで、あのようなCMを流すというのも不思議な感覚ではある。何なんだろうか、この違和感は。
ちょっと前に話題になった「女性手帳」ではないが、「お上の余計なお世話」感が滲み出ている。カネ使って広告してまで価値観の誘導するくらいだったら、もう少し賃貸の家賃が低下するような、つまり住まいの選択肢を増やせるような政策を考えた方がいいと思うんだけれどね。
結構前のことだが、facebookのとある知り合いのウォールで議論になったのだけど、「タレント広告って、正しい戦略なの?」という話があって、僕も茶々を入れたんだけど、いい機会なので一応整理しておこうと思う。 まず「ブランディング」という観点から考えた時に、タレント広告を積極的に推奨する研究者は知っている範囲では「いない」という感じがする。 理由は単純だ。ブランド連想の中核は、名前、ロゴやマーク、そして製品やサービスから受ける印象であるべきで、だからこそ「ブランド」として永続性を持つからである。 それなのに、ブランド連想の中核をタレントという外部資源に預けるというのは、あまりにリスクが高いからだ。ちなみに中核を預けるつもりでなくても、一度広告に起用すると連想の上位、それも多くの場合1位がタレント名になるのである。 スキャンダルなど問題外だが、そうでなくてもタレントの価値はブランドと無関係に上下する。俳優だってずっと人気を保つ人は稀だし、スポーツ選手なら当然成績も変わる。 しかし、こと短期的なセールスに関していうともちろん効果はある。 図は、CMの出稿量と認知率を示したモデルだ。大雑把なんだけど、CMを出稿するほど認知は上がる。これを定期的に調べてデータ化すると「このくらい出稿すればこのくらいの認知」というのは調査会社や広告会社には蓄積されているし、実績のある大手広告主も知っている。 そして図の★のように、「出稿量の割に認知が高い」CMがありがたいわけなんだけれど、この手のモノを分析すると、その多くがタレント広告なのだ。しかも人気タレントほど、認知を取るには手っ取り早い。 >> タレント広告とブランディング、という件。の続きを読む