三ツ矢サイダーのCMがテレビから流れてきて、いきなりムズムズ感に襲われた。このムズムズ感は何かと思ったが、あれだ。綾鷹だ。
こちらのエントリーでも書いたけど、綾鷹のCMがムズムズして気になっていた。
「この国のもてなし」
というコピーだ。
そうしたら、三ツ矢サイダーのCMもこう言っている。
「この国の爽やかさが、好きだ。」
おお、そうであったか。かくして、この国の飲料CMは「この国」が目立つ。
三ツ矢サイダーの近年のCMを見ていると、ポジショニングというかターゲット設定を模索していた感じがした。
2015年は多部未華子と福士蒼汰を起用して、「若い社会人」を描いていた。もともとは十代とその親をターゲットにしていたので、「お?」と思い大学の講義などでも取り上げた。ちょうど、黒烏龍茶も思い切りポジションを変えてきており、「働く20代女性」に着目したのだと思う。 >> 綾鷹、そして三ツ矢サイダーもCMは「この国」だらけなわけで。の続きを読む
なんか、ムズムズする。花粉でもなければ、証人喚問でもない。「綾鷹」の広告のことなんだけど、最新のコピーはこうだ。
「この国のもてなし」
緑茶にはもてなしの心が込められている。その精神を受け継ぎ、急須で淹れた緑茶の味わいに挑み続けるという。
その意気や良し。おお、うっかりして大時代的な表現をしてしまった。というか、だったら急須で淹れればいいんじゃないか。いや、それを言ってはいけないのか。
それにしても、「この国」というのが、どこかムズムズする。そういえば、綾鷹は以前にこんなコピーだった。
「日本人の味覚は、世界一繊細だと思う。」
ちなみに広告表現において「一番」のような最上級表現はむやみにしてはいけない。数的なものであれば根拠を明示するのだけれど、何といっても「味覚」だ。しかも製品のことを言っているわけではなく、文末に「思う」とある。
だからいいのか?というと、これもまた相当にムズムズする。
でも、綾鷹はこのムズムズ感において、一貫性がある。
つまり、「世界一繊細な味覚を持つ国民が、ペットボトルのお茶でおもてなしをする」ということだ。
こうやって書いてみると、やっぱりムズムズする。
しかし、コカ・コーラのほどの企業なのだから、こうした広告をするには理由があるのだろう。つまり、こうした表現を受容する人がたくさんいて、そういう人はあまりムズムズしない。
だから、広告をああだこうだ言うのは野暮なのであって、まあ今の日本がそういうことなのか。
と思っていたら、もう一つムズムズするものがあった。 >> 「綾鷹」の広告がムズムズする。の続きを読む
テレビでたまたま滝沢カレンが出ていて、例によって「変な日本語」なんだけど、彼女の言葉を笑えるのか?というと結構似たような言葉を使っているは多いんじゃないかな、と思う。
彼女の言葉の「変さ」には傾向があると思うんだけど、一つは「丁寧に言おうとして妙になっている」というパターンだろう。
「さんま御殿さんにお世話になりつつあります」とかみんな笑っているけど、ビジネスシーンの過剰敬語も似たようなものだ。
「ただいまより、プレゼンテーションをさせていただきたいと思います」とかも根は一緒。
そして、もう一つ感じたのが「何かいいこと言わなくちゃ」でかえって変になるパターンだ。
いわゆる「食レポ」をしていて、こんなことを言う。
「軽い味の割には、重い」
「モチモチ感がへばりつく」
「良い意味で歯ごたえがまったくない」
これって、広告業界の人が結構口にしているパターンによく似ている。 >> 広告業界人は、滝沢カレンを笑えないよなあ。の続きを読む
デジタルインテリジェンスの横山隆治さんが昨年来書かれている著作は、「デジタル=ネット」という狭義の発想を超えて、マーケティングことにメディアプランニングの分野の知見を一新する連作になっていると思う。
今回ご恵送頂いたのは、「届くCM、届かないCM」という新刊で、大橋聡史氏、川越智勇氏との共著となっている。そして「効く」ではなく「届く」というあたりがポイントだ。
目の前に映る映像や、耳に入る音声は本当に「届いて」いるのか?網膜や鼓膜を刺激しても、大切なのは「アタマ」に届いて残ることではないか?という視点での問題提起だ。
だから記憶から情動、そして行動までを見通すための指標として「注目量」の指数である、GAP(=グロス・アテンション・ポイント)が提唱される。
視聴率だけを積み重ねていたGRPという指標は、誰が聞いても「それでいいのか?」という感じではあったものの、相当に長生きしてきた。ただし、そろそろ引退されてもいいのではないかと、一連の著作を読んで実感する。
横山さんたちの手になる本は、『新世代デジタルマーケティング』(紹介はこちら)で、メディアプランニングの全体像をあきらかにして、 『リアル行動ターゲティング』(紹介はこちら)では人の生活に密着した手法を提唱した。 >> すぐれたクリエーターなら大歓迎する科学の一冊『届くCM、届かないCM』の続きを読む
年の瀬になり、振り返って書きたいことはいろいろあるけれど、一度自分の中でも整理しておきたいなと思うのが「働き方」に関することだ。
10月に電通で過労死の労災認定がなされて、その後は厚労省による強制捜査という異例の事態になった。自分も新卒から18年間広告会社で働いていたし、現在でもビジネス上や私的な関係もある。またキャリアに関わる仕事をしているだけに、いろいろと感じることがあったのだ。
まず、いろいろと議論になった「長時間労働“だけ”が原因なのか」ということについて、改めて整理しておきたい。こうした不幸な事件が起きると、超過勤務の量が問題になるけれど、それを制限すればいいのか?という疑問は耳にした。
ただし、この疑問にしても人によってニュアンスが異なる。
「時間だけ制限しても、いわゆる“サービス残業”になってるでしょ」という声。これは、一般的なサラリーマンの感覚のようだ。
また「そもそも長時間労働だけが、原因なのか?」という疑問もある。これは、その通りで、たしかに労働時間が短くても追い詰められることもある。
ただし、広告業界にいた人などは、ここから別のロジックを語ることがある。
「長時間労働でも平気な人もいるし、一律の時間制限や消灯などは無意味じゃないか」という意見だ。
たしかに、「平気な人」もいる。ただし、いろいろな声を読んでみたが、こういう意見の人自身が「平気な人」なのだ。
ちなみに、僕は長時間労働が「平気な人」ではない。それが社内転職した事情の一つであることはこちらに書いて、いろいろな人から「わかります」という声をもらった。 >> 【働き方再考】やはり「長時間労働」から変えていくべきだと思う。の続きを読む