パーヴォ・ヤルヴィがN響を振って、マーラーの「悲劇的」を演奏するという。しかも、NHKホールではない。でも、横浜で、平日だ。
迷うことなく行くことした。クルマで一人にコンサートに行くのは、あまりない経験だ。
演奏の組み立ては予想通りだった。
1楽章は、カチッとして引き締めた造形で、2楽章に持ってきたスケルツォと並んで、コントロールを優先した印象だ。アンダンテも過剰に耽溺する感じではない。
ヤルヴィは、N響の機能を活かしたうえで、フィナーレしかも最後の10分くらいでエネルギーを解放させるだろうと思っていたが、そういう狙いだったようだ。
長大なフィナーレで、2度のハンマーの後、再現部の前でコラールがある。ここのテンポはそれぞれなのだけれど、ヤルヴィは相当にたっぷりと歌わせていた。ここから最後までの爆発を狙ったのだろう。
しかし、その意図を表現しきれていたかというと、ちょっと難しいかなという印象だ。「悲劇的」はフィナーレのコーダに至る部分が、いい意味で「乱れる」ような仕掛けになっていると思う。
イメージで言うと、戦国武将の合戦でもう刀折れて矢は尽きて、髷はほどけてざんばら髪。馬はどこかへ行って、兜は飛んで、甲冑もズタズタ。そういう中での肉弾戦のような感じだ。
関ヶ原の戦い、午後3時の西軍という雰囲気だ。その勢いがあれば、少々のアンサンブルの乱れがあっても許されると思う。
ただ、この日はオーケストラが少々息切れしたのか、乱れ切るのを自制したのか。もちろん、全体的にはとても水準が高い演奏だったし、この後の欧州公演では、よりいい演奏をしてほしいと願う。
そして、ホルンはソロもアンサンブルも素晴らしい。コンサートマスターは、よく見るカワウソのような人で、さすがのリーダーシップだったしソロも精緻だった。
ただひとつ気になったのが、演奏後の団員のマナーだ。 >> ヤルヴィの「悲劇的」とN響のマナー。の続きを読む
宝塚歌劇の花組公演を観に行った。いわゆる「和物」のショー『雪華抄』が前半で、後半が『金色の砂漠』だ。作・演出が上田久美子というのが気になっていた。
『翼ある人びと–ブラームスとシューマン』で驚き、初の大劇場公演となる一昨年の『星逢一夜』も楽しんだ。
それ以来の公演で、舞台は砂漠の王国だ。いつか、と言われると困るんだが解説にも「いつかの時代」としか書いてない。「ガリア」という言葉が出てくるから、古代ローマとかそのくらいのイメージか。オペラ「アイーダ」のような世界で、要するに相当昔だ。
主役が奴隷で、トップスターがいきなり踏み台にされるというのも驚くが、彼は奴隷として仕えた王女と恋に落ちる。当然ながら、周囲は受け入れようとはしない、時代を遡って幼年の頃からもさまざまな因縁も明らかになるが、彼らは旧弊を打破できない。 >> 上田久美子の「壁」なのか?宝塚花組「金色の砂漠」の続きを読む
音楽は好きだけれど、聴き方は相当保守的だと思う。いまだに、CD中心だ。これは、聴くジャンルの多くがクラシックだということがあるだろう。配信サービスの品ぞろえが当初はあまり良くなかったのだ。
その上、スピーカーでしか音楽を聴かないということもある。20代の後半くらいまではヘッドフォンを使っていたのだが、どうもある時から苦手になった。耳に辛いので、まったく使わない。だから家でしか音楽は聴かない。
そうなると、ipod以降のサービスとはあまり縁がない。
だから昨年くらいから話題になっていた定額配信サイトも見過ごす、というか聞き過ごしていたんだけれど、改めてspotifyを聴いてみたらクラシックが相当に充実していた。
spotifyの無料サービスには制約がある。そして、こういう制約はポピュラーを前提にしているのだろう。
まず、無料だとちょこちょこと広告が入る。ピアノ曲集なんかだとあまり気にならないけれど、シンフォニーだと楽章間に全部広告が入る。モーツアルトのレクイエムの一曲ごとに「第一興商」とか「ネットフリックス」とか賑やかになってしまう。
またスマートフォンだと、強制的にシャッフルになるようで、これもクラシックだと「勝手に楽章シャッフル」になるわけだ。
オペラとかだと、相当楽しいことになるんだろうけど。
ただし、PCやタブレットだとシャッフルにはならない。だから僕の場合は関係ないかと思っていたら、落し穴があった。PC・タブレットは月間上限が15時間なのだ。デバイスによって、リスナーの特徴を見切っているのだ。
というわけで、有料会員になった。 >> spotifyのクラシックは相当にいいかも。の続きを読む
ブルックナーという作曲家がいて、結構人を選ぶ。好きな人は好きだが、嫌いな人にとっては退屈だろう。
僕はそれほど好きではない、と書いてみたものの昨年もわざわざバレンボイムを聴きに行っている。まあ、なんというかある時に無性に聞きたくなったりはするのだ。
ただ、本当に熱心なファンではないのだろうなと思う。というのも、好きなディスクはカラヤンとかショルティだ。「本当の愛好家」は、ヴァントや朝比奈隆を好むらしい。
あと、熱心なファンが好む「9番」が今ひとつ苦手だ。
で、その理由はわかっている。たしか、高校が大学の頃に映画館で見た、とある映画の「予告編」に第2楽章のスケルツォが使用されていたのだ。
このスケルツォは、ブルックナーの中でも妙に暴力的なところがある。7番のようにグルグルと空が回るような「天の音楽」の感覚は大好きなんだけど、これは「地の音楽だ」。それが3拍子だから、3本足の怪物がドタバタしているような感覚になる。
そして、その映画は日本映画だった。ただ覚えているのは「琵琶湖で女がマラソンをしてる」ような話だったと思う。何か、走る女のバックにブルックナーが響くのだ。
あの頃はそれなりに映画を見ていたので、この予告編も複数回見たのかもしれない。そして、本編は見ていないのだが、何だか「イヤーな感じ」の印象がある。それ以来、ブルックナーの9番はどうも苦手なのだ。
しかし、そんな僕の記憶は本当に正しいのだろうか? >> 伝説の謎の映画「幻の湖」とブルックナー。の続きを読む
昨年は、あちらこちらの舞台に行って、勘定してみたら64回だった。
クラシックのコンサートが一番多く、あとは落語や能、たまに宝塚のミュージカルなどに行く。映画館は一度も行かなかったが、その前年がスターウォーズの1回きりだから、まあそんなものだ。
ただ、何となく興味が変わってきた気もする。音楽だと、オーケストラもいいけど、ピアノソロや室内楽に足を運ぶようになった。オペラは減ったが、能には月2回くらいはコンスタントに通う。
大きな音が億劫になったのかもしれないが、より抽象的なものに惹かれている気もする。殊に能などは、抽象性が高い。
だからだと思うが「難しくないですか?」と聞かれることが多い。たしかに簡単ではないが、じゃあ何が面白くて観に行っているのだろう?と考えてみた。
実は、能の抽象性というのはたしかに「わからない」ところがある。多くは夢幻能という形式だが、そこでは「何らかの霊が降りてきて舞をする」ような展開がある。哀しみとか憂いのようなものはあるのだが、そこであの面だ。実際の表情を見せないことで、想像をしていくことになり、たしかに「わかりやすい」とは思えないだろう。
しかも人の霊ならまだしも、先月観た『遊行柳』などは「柳の精」が舞うのだ。もう、どう考えればいいのか。 >> 分かりやすいコンテンツって、実は不自由なんだと思う。の続きを読む