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先週の金曜、午前中にミーティングがあった後は、オフの日だった。14時からSWAの下北沢公演に行き、16時過ぎに終わってからは六本木ヒルズへ向かう。
「ドラゴンクエスト展」が12/4で終わってしまうからだ。スライムも肉まんになって話題になっていたが、誕生から四半世紀。陳腐な言い方だけれど、国民的娯楽なわけで。
平日のまだ17時前でも、チケット売り場はそれなりに並んでいる。想像以上に「老若男女」という感じで、幅が広い。と言っても、上は50代半ばかなと思うけれど。
しかし、こんなに皆がニコニコしている展覧会は珍しい。そして男性同士の客は、とにかく語っている。母親が娘に「ママはこのファミコンだったのよ」とか話しているし、一心不乱に堀井雄二の手書きのシナリオを見つめる若い女性もいる。
若い世代と共通の話題が見つけにくい、というのは歳をとると誰でも経験するけれど、DQはかなり話が通じる稀なコンテンツだ。ハードが新しくなるたびに、ちゃんとリメイクされているので初期作品も結構幅広い世代が遊んでいるのである。
この展覧会で個人的に一番おもしろかったのは、ゲームの制作プロセスだった。堀井氏の手書きのシナリオ、ラフスケッチ、キャラクター原案。そして、モンスターの出現頻度のパラメーターが書かれたマップなど。
そこで改めて思ったのだけれど、DQは単に「面白い」ゲームではなく「幸せ感」の溢れる世界なんだなと。だから、展覧会に来た客は皆ニコニコしているし、売店で「800ゴールド」ですとか言われて嬉しくなるし、急ごしらえの「ルイーダの酒場」に並んでいるのだ。
で、この幸せ感は鳥山明とすぎやまこういちに負うところが多かったんだな、ということも今回実感した。

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ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会 
指揮:マリス・ヤンソンス
アルト:アンナ・ラーソン
合唱:新国立歌劇場合唱団・TOKYO FM少年合唱団
11月21日 18時 ミューザ川崎シンフォニーホール
マーラー:交響曲第3番 ニ短調
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結局、このブログもウィーン・フィル以来となってしまったけれども、年内にコンサートのことは書かないだろうと思う。間もなく「第九」の季節なのだけれど、あれを年末に聞くという気にならないからだ。
ネルソンス=ウィーン・フィルから三週間。師匠の振るコンセルト・ヘボウの響きを聴いて、とりあえず思いついた言葉が「亀の甲より年の功」というのは、我ながらひどいと思うのだけれど、演奏家ことに指揮者というのは「絶対年齢(経験値)」がそれなりにモノをいうのである。
ヤンソンスの指揮は、テンポ設定やバランスさらにそのアクションも含めてきわめてオーソドックスだ。ここ数年日本には、コンセルトヘボウとバイエルン放送交響楽団を交互に引き連れて、毎年やってくる。そして、僕も毎年のように聴いている。
おそらく「日本で最も心待ちにされている指揮者」なのではないだろうか。
誠実で、真っ当であるがゆえに何かの刺激を求めている人には物足りないかもしれない。また作曲者の意図を徹底して掘り下げてスコアを読むかというと、そういうわけでもない。それでも、彼の音楽を聴きたくなる理由が改めてわかった。それは、指揮者とオーケストラが音楽を奏でる場に「立ち会える」喜びに他ならない。

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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会 
指揮:アンドリス・ネルソンス
トロンボーン:ディートマル・キューブルベック
11月1日 19時 サントリーホール
モーツアルト:交響曲第33番 変ロ長調 K.319
アンリ・トマジ:トロンボーン協奏曲
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 B178「新世界より」
アンコールについてはこちらを参照。
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新世界というのは難儀な曲であり、ウィーン・フィルとは厄介なオーケストラだと思った。
新世界をプロの生演奏で聴いて、素直に感動した経験がない。「聴かせる」という点では、かなり難儀な曲なのだと思う。ベートーヴェンが第5交響曲で編み出した「苦悩から勝利へ」というストーリーでもなく、かといってサラリと流せるわけでもない。
むしろ印象的なのはアマチュア・オーケストラの自己陶酔的な演奏が妙な感動を呼ぶことがあるくらいだ。
この日の演奏も、この曲の難儀な雰囲気がよく現れていた。随所に、というか最初から最後までウィーン・フィルらしい響きは堪能できるのだけれど、音楽に没入しきれず、どこか冷めたままエンディングを迎えてしまった感じもある、
それは、また指揮者と楽団の関係も影響しているのかもしれない。
ネルソンスは、ヤンソンスの弟子でありラトヴィアの名門「ソンス一族」という出自である。というくだらない嘘を書きたくなるほど、指揮姿はヤンソンスを髣髴とさせる。やや高めの打点、熱のこもったときの上半身の激しい揺さぶり。
ただし、その熱がオーケストラとコミュニケーションできているかというと、やや疑問が残る。彼の打点は明確のようでいて、肝心のところが「スルスル~」と抜けたようになる。結果として管楽器のアインザッツが乱れたりする。
終楽章のホルン・ソロで高いEがよれたのも、棒と無関係とはいえないように思う。つまり呼吸があっていないのだ。
そして、こうした若手の指揮者に対するウィーンフィルの振る舞いというのが、これまた厄介なのである。

>> 難儀な「新世界」と、厄介なウィーン・フィル。の続きを読む



ヴッパータール交響楽団演奏会 
指揮:上岡敏之 
10月18日 19時 サントリーホール
モーツアルト 交響曲第28番 ハ長調 K.200
マーラー   交響曲第5番 嬰ハ短調
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いろいろと評判の指揮者だったのだが、たまたま聞く機会に恵まれた。
最初のモーツアルトでまず棒さばきに目が行った。細かく拍を刻まずに、オーケストラと歌うようなスタート。時折、弦楽器のハーモニーが、思わぬ厚みを見せる。また木管やホルンの響きも、劇的でかつ美しい。ここまで聞いた印象では「自然な音楽をつくる指揮者」というイメージで、後半が楽しみになる。
ところがマーラーは全く想像しなかった音楽だった。
表面的な面でいうと、テンポの緩急が意外なところで動く。また、低弦や内声の強調、ピッツカートなどのアクセントなどが大きなアクションとともにいやでも目立つ。
そして、マーラーの混沌とした思念をぶつけているかというと、フィナーレを聞き終わった時には、比較的爽快な印象が残る。コンサートとしてはとてもいい体験だったのだけれど、後から思い出すと「どうしてああしたいのか」が何だかスッキリしない面もある。
とはいえ、彼の指揮をまた聞きたいか?というと「聞きたい」と迷わず答える。つまり気になるのである。
指揮者をシェフにたとえるのであれば、彼はあえて肉の内臓まで使った料理が得意なタイプなのだろう。

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(2010年8月17日)

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柳家小三治独演会 8月12日 18時30分 
きゅりあん(品川区立総合区民会館)大ホール
だくだく 柳亭燕路
品川心中 柳家小三治
(仲入り)
粗忽長屋 柳家小三治  
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小三治は春先に三鷹で聞いて以来である。
落語を聞くようになって、といってもずっと聞き込んでいるわけではないのだけれど、25年くらいはなるのだろうか。父が「つまらなそうに話すんだよ」と言っていたことを覚えている。
もちろん「つまらなそうに話す」ことと「話がつまらない」ことは同じではない。十分に面白いのだけれど、ほぼ同世代には志ん朝というスターがいた。無理に比較することはないと思うけれど、いろいろな意味で「実力派」と評されやすいことも事実である。
きゅりあんというホールは、開館当初に芸大の打楽器科のコンサートを聞いた記憶がある。ひと言でいうと、過剰な反響があってパーカッションでは飽和気味だった。
あらためてホールを見て思ったのだが、客席はワンフロアなのだけれど天井が妙に高い。ワオンワオンと音が回る。燕路の「だくだく」も軽快でよかっただのが、この反響のせいで聞きとりにくくなったことがあった。
小三治が語り始めると、そうしたことが全く気にならない。発声からマイクの使い方までホールのクセをつかんでいるのだろう。
例によって、ゆったりと枕を語りつつも今日は少々ギアの入り方が悪いように感じたのだが、段々と乗ってきて「品川心中」へ。言葉の解説などをていねいにしながら、もう一段ギアを入れて、話が後半になだれ込んだあたりには、もうたっぷりと楽しむことができた。
中入り後は枕も軽く、「粗忽長屋」。これにはあらためて驚いた。
粗忽者が二人出てくる軽めの定番のネタではあるが、名人が演じるとここまで違うのかと驚く。何ていうのか、普通の家庭料理、たとえば「肉じゃが」のようなものを一流の板前が作るとこうなります、というような感覚である。
落語の「粗忽者」、とりわけ「粗忽長屋」の二人というのは「居そうな人」ではない。明らかに「いるわけがない人」なのだ。だから、この二人が現実からまったく遮断されながら、普通に会話をして、淡々と進行しているところが面白いのである。
うまくない噺家だと、「ホラ粗忽者でしょ」と自分ではしゃいでしまうのだ。
「落語とは笑いだけの芸ではない」ということで、大作の人情噺を演じることが評価の基準になっているような空気も一部にはあるようだけれど、こういう噺で素直に楽しめるという時間が一番好きだ。
あまりに暑いのでクルマで行って、サッサと帰ってしまったのだが、なんか勿体ない気がした。