ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル
4月21日 サントリーホール
スクリャービン: ピアノ・ソナタ第2番 嬰ト短調 op.19「幻想ソナタ」
プロコフィエフ: ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 op.82
リーバーマン: ガーゴイル op.29
ラフマニノフ: ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36(1931年改訂版)
【以下アンコール】
シューベルト/リスト編 :糸を紡ぐグレートヒェン
ビゼー/ホロヴィッツ編 :カルメンの主題による変奏曲
グルック/ズガンバーティ編:メロディ
プロコフィエフ:トッカータ
ショパン:ワルツハ短調op.64-2
ロッシーニ/ホロヴィッツ編:セビリアの理髪師
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曲目を書いただけで結構な行数になるわけだが、この日のハイライトはアンコールにあったようにも思う。
実は、この日リストのロ短調ソナタを最後に演奏する予定だったのだが、直前になってそれが回避されて、結局、もう一つのプログラムに予定されていたラフマニノフに。その理由も何となく分かる気がした。
まず技量的には、かなり達者で特に左手が正確かつハーモニーが乱れない。「女性なのに」とか考えること自体、全く意味がない。ただし、すべての音楽が直線的に進んでいく。
リストのソナタは、ところどころに彽徊と躊躇があって聴いていると「自分がどこにいるのか」わからなくなる感覚があるのだが、今日の曲はすべて一気にゴールまで進むように表現できる。
ああ、リストをやりたくなかったのかなあ、という感じも何となくわかるのだ。単に多忙でさらう時間がなかったのかもしれないけれど。
そして、アンコールを聞いて感じたのは、「ああ、ここにもホロヴィッツがいるな」ということに尽きる。ここにも、というのはランランの時にも同様なことを感じたからだ。
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 演奏会
指揮:ロリン・マゼール
2013年4月18日 サントリーホール
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲~ヴェヌスベルクの音楽(パリ版)
楽劇「トリスタンとイゾルデより 前奏曲と愛の死
ブルックナー:交響曲第3番二短調(1889年第3稿 ノーヴァク版)
アンコール:ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲
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カルロス・クライバーが、とある公演をドタキャンした。さて、代役はどうする?アバド、ムーティ、メータ?と探し回ってたら、マゼールから「空いてるよ」と電話があったという。
これは真偽はともかく、とある雑誌にあったエピソードだ。90年代初頭のことなんだけど、何となく「わかる」ところはある。才人でありながら、よく悪くも大衆的な人気とは距離のある人だと思う。
キャリア的にもいろいろと曲折のある人なのだが、70歳を過ぎてニューヨークフィルの音楽監督になった頃から、ジワジワと老人力を発揮してきた気がする。NYPの演奏はネット配信でもよく聞いていたが、マゼールの指揮には何度も驚かされた。
印象的だったのは、サン=サーンスの第三交響曲。最後の最後でテンポが倍に伸びたのだ。トランペットがキッチリと吹いていたのにさらに驚いたが、この頃から「何をするかわからない」感じになっていたと思う。
そこで、来日公演でベルリオーズの幻想を聴いた。いま調べると2006年だから、76歳。この演奏は、唐突なことはなく「お腹いっぱい」な感じで終わったのだけど、今回ミュンヘン・フィルとの演奏は、83歳になったマゼールを「体験する」といった感じの一夜だった。
話題の映画「レ・ミゼラブル」の特集が毎日新聞のウェブに載っていた。こちらの記事だ。で、僕も見たので読んだのだけれど、何だか哀しくなってしまった。
隙のない脚本、美しく逞しいメロディー、卓越した歌唱と、斬新なカメラワーク。上映後には、久しぶりに魂を抜かれた気分になった。ただし、新聞社というのは、それだけでは納得できないらしい。
このヒットの背景には「格差社会」があり、「東日本大震災」の影響があるそうなのだ。そして、識者の分析、という名の感想文が並んでいる。
香山リカさんとか、すっかりネタを提供する不思議な方になっている。あの映画の怒涛の波の中で「アベノミクス」に思いを馳せる人がいるんだろうか。
まあ、この「特集」を読むと、ホント新聞のこれからはますます厳しいな、と思う。結局ヒットしたコンテンツの背景を、どうしても「社会状況の反映」にしないと気が済まない。そういう分析をすることが自分たちの役目だと思っているのだろう。
それこそが、新聞離れの最大の原因だというのに。
バイエルン放送交響楽団 演奏会
2012年11月27日 サントリーホール
ベートーヴェン 交響曲第1番 ハ長調
ベートーヴェン 交響曲第2番 ニ長調
ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調
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ここ数年ヤンソンスの来日公演は必ずのように行っている。技術的には卓越しているが、どこか「寸止め」感のあるコンセルトヘボウと、深みのあるサウンドとパッションがありつつ金管などのアンサンブルに傷のあるバイエルン。
ただし、いずれにせよ「次回も聴きたい」となるのは、ヤンソンスの人徳なのだろうか。
今回は、ベートーヴェン全曲チクルス。となると、滅多に聞けないということで、まず9番を選択。これは次の土曜日。
そして、意外とチケットがあったので、これも来日オケではあまり聴けない5番。座席はLAブロックの最前列。オケが対向配置で、コントラバスの背中を見るシートだった。
そして、今回も、「なぜそこで」というような傷があったけれども、おそらくそれを気にした人は殆どいなかったのではないだろうか。
なぜかというと、圧倒的に「ベートーヴェンの音楽」を堪能できたから。クラシックの素晴らしいコンサートでは、結局作曲家の想いがクッキリと浮き上がってくる。そして、とりわけ第5番のいい演奏を生で聴くと「あっという間に終わる」のだ。
特に3楽章からフィナーレに入る辺りを聴くと、ベートーヴェンがこれを書いた時はさぞかし楽しかったのではないかと、想像してしまう。
「フフフ、このまま切れ目なしにいきなりファンファーレ鳴ったら、驚くだろうな~」みたいな感じ。「エエイ、トロンボーン入れちゃえ」「ピッコロも面白いぞ」「もう一度、ダダダンでテーマ書いて、と」。だから、密度が濃い。
これが9番あたりになると、本人の間でもかなり収拾がつかなくなっていて、それはそれで面白いんだけど、5番の密度はすごい。
敢えて言えば、この夜は何と言っても、ベートーヴェンを聴く夜で、ついでオーケストラ、指揮者が順々に後景に存在しているという印象。
それが、いいんだよな。と最近は思うようになった。
1番、2番も印象はまったく同じだけれど、それぞれ緩徐楽章にハッとする響きを感じた。ちなみに前半の2曲は第一バイオリン12人の、いわゆる「12型」だったが、5番は「16型」。つまりコントラバスは2倍になるわけで、この辺りも含めてベートーヴェンの「化け方」を堪能するコンサートだった気もする。3番の編成はどうしたんだろうか。
というわけで、土曜日もかなり楽しみになってきた。
近所にあるワインバーで、大変いい店なのだが一つ困ったことがある。お手洗いに入ると、どのセンサーがどう働くのか「G線上のアリア」が鳴るのである。酔いが覚めるというか、回るというか。
そして、ふと思い出した。それは、1995年1月20日の東京文化会館。冒頭に演奏されたのは、プログラムにはなかったバッハの管弦楽組曲第3番より”アリア”。つまり「G線上のアリア」である。
この曲に先立って、舞台に登場した小澤征爾が客席に振り向いた。
「先の震災で亡くなった方々のために、バッハのアリアを捧げます」
この時の客席の空気感を伝えることは難しい。演奏が進むにつれて、心なしかすすり泣きも聞こえた気がする。最後の余韻が消え去っても、誰も拍手をしない。一度、袖に戻った小澤征爾が再度登場して、タクトを振りおろす。
誰もが知っている、あの動機。そう、この日の一曲目はベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調。いわゆる「運命」だったのだ。
そして、バッハの曲とベートーヴェンのシンフォニーはあたかも一つの曲のようだった。小澤征爾の演奏を聴いた中でも、この日の印象は大変に強い。阪神大震災の直後、ということも影響していることはもちろんだが。