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宝塚歌劇団宙組

『翼ある人びと―ブラームスとクララ・シューマン―』

作・演出/上田 久美子

2014年2月26日 日本青年館大ホール

 

ブラームスの才能を見出したシューマンは「新しい道」と題した評論で、彼を称えたというけれど、今回の作・演出の上田久美子さんも、まさに「新しい道」だと感じた。

僕はクラシックを聴くし、就中ブラームスは大好きなので、むしろこの公演は気になりながらも迷っていた。ところが関西公演のリハーサルをCS290chのスカイステージで見ているうちに、「もしやかなり面白いのでは」と予感したのだが、想像をはるかに上回る、素晴らしい舞台だった。

若いブラームス、彼を見出したシューマン、そして妻のクララ。ブラームスはクララに恋心を抱いたのではないか?というのはずっと謎として語られていた。このストーリーも一歩間違えるとただのメロドラマになる題材なのだけれど、そんなことは全くなかった。

なぜか?というと、この時代の作曲家の苦悩がていねいに描かれていることで、とても骨太な構成になったからだと思う。

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そして宝塚が100年である。めでたい。めでたいから、まずはナポレオンだ。
しかし、ナポレオンは手ごわい。近くにいてもあまり友達になりたくない感じだが、そういう意味ではなく、後世の人々にとっても手ごわい。
軍人としての卓抜さ、政治家としての手腕、そして意志に貫かれた個性。しかし、その功績は隣国からは悪魔の所業ともいわれ、晩年は悲惨でもある。後世、というか当時の文化人も翻弄された。ヘーゲルは彼に「世界精神」を見て、ベートーヴェンは“エロイカ”を献呈しようとした。
それから、200年余りが経ったが、彼を舞台で描くのは本当に手ごわい。一体、何を描きたかったのか?という思いが舞台を見た後も付きまとう。
ナポレオンの業績を横糸に、ジョセフィーヌとの関係を縦糸に、と書いて思ったけど、縦も横もよくわからないくらい、エピソードが多く溢れている。あまりにも多くの素材を料理しようとして、焦点の定まらなくなったコース料理のようだ。
猛女の姑と嫁、過去を遡る演出など「エリザベート」を彷彿させるところもある。そういえばタレーランはトートを連想する。
しかし、いかんせん相手はナポレオンだ。結局彼は何者だったのか。眠らない男、というだけでは物足りない。後ろの席にいた女性は「眠らない♪」という歌を聴きながら、眠気をこらえていたと話していた。たしかに、舞台としては単調なところもある。 >> ナポレオンはやはり手ごわかった。の続きを読む



(2014年1月21日)

カテゴリ:見聞きした
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abbado最近、facebookを見ると誰かが亡くなっていた、ということが多い。
昨夜帰宅した時、アバドは世を去っていた。友人が写真に、R.I.P.と一言。ニュースサイトを見て、訃報を確認した。80歳だった。
アバドは、僕たちの世代にとっては「同時代感」のある作曲家だった。30も歳の離れた親世代に「同時代感」を感じるのは妙に思われるかもしれない。
ただし、クラシックとりわけ指揮者というのは、40そこそこで「新進気鋭」などと言われる世界で、80を過ぎてなおかつ現役の方もいる。つまり、自分たちがクラシックに触れて、オーケストラに参加した頃、まさに颯爽と楽壇を賑わせていたのがアバドだった。
カラヤンはおりしも没後25年で、享年もアバドとほぼ同じ。つなり、アバドが親世代であり、カラヤンは祖父の世代になる。
多くの録音があり、また来日も多かった。ただし、音楽に触れた頃のディスク、特にシカゴ響を振ったマーラーの録音が一番思い出深いし、演奏としても素晴らしいと思う。大学で一緒にマーラーを演奏した同世代に友人たちが、今朝のfacebookで同じことを書いていた。
当時輸入盤のレコードは、ちょっと大げさだが二枚組の箱に入っていて、恭しく針を落とした記憶がある。
もっとも、彼のマーラーに”狂気”が足りないとか、退屈だという評も見かける。ただ、実際に演奏してスコアを見ればわかるが、マーラーは極めて精緻な書き込みをしていて、それを”狂っているかのように”演奏するのが、一時の流行だったということではないだろうか。そして、マーラーの音楽を「明らかにしてしまった」のがアバドだった。
それを「退屈」と評するなら、それは、その人自身が退屈な人なのだ。仕方ない。
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222-Rite_of_Spring_opening_bassoon.png 2013年11月20日 ミューザ川崎シンフォニーホール
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 演奏会
シューマン:交響曲第1番 変ロ長調 作品38「春」
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
ヴァイオリン:樫本 大進
指揮:サイモン・ラトル
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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いったい、今まで聴いていた「オーケストラ」とは何だったのだろうと思わされてしまう「春の祭典」だった。
「オーケストラは西洋文化の生んだ最高のソフトウェア」と、高校の先輩が言っていた言葉を思い起こす。ただし、このソフトウェアも千差万別で、そのための曲も無数にある。ただ、百年前にストラヴィンスキーの書いた意図が、ここまでクッキリと浮き上がってきた時間を経験できたことは本当に幸せだったと思う。
最高の演奏、というよりも人類史上における「共同作業の到達点」の1つだと思う。多くの人が、1つのことを成し遂げる。言葉で書けば簡単であるが、全員が対象について深く理解して、共通の認識を持ち、かつ高度な技術を有していなければこんな演奏はできない。
機能性が高い、とかパワーがすごいという言葉で片付けてはこの演奏の意味はまったく捉えられないと思う。
それって、素晴らしい食事のあとで「お腹がいっぱいです」という程度の感想でしょ。
ファゴットの冒頭から紡ぎだされるメロディから広がる不気味な世界に、異次元から割り込むEsクラリネットの衝撃。ここままでで、もう「他のオケとは全く違う集団」だということがわかる。
ストラヴィンスキーの楽譜を全員が読み込んで、その音楽を懸命に再現しようとしている。うまいだけではなく、志が高い。音楽を尊敬している。
でも、オーケストラに限らず、真剣に鍛錬した人間が、毎日努力して、「もっとうまくできるはず」と挑戦を続けている集団だってどれだけ世界にあるのだろうか。

聴き終ったあとの感想は、本当に単純だ。
「これが、オーケストラなんだ」
いや「オーケストラだったのか」と言ったほうがいいのかもしれない。。
それ以上に、言葉も無し。本当に感動した時には、また違った溜息がが出るんだなと改めて知った。



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2013年11月18日 東京文化会館
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団演奏会
ワーヘナール : 序曲「じゃじゃ馬ならし」 op.25
ストラヴィンスキー : バレエ「火の鳥」組曲 (1919年版)
チャイコフスキー : 交響曲第5番 ホ短調 op.64
〈アンコール〉
チャイコフスキー: バレエ「眠りの森の美女」から パノラマ
指揮:マリス・ヤンソンス
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
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演奏前に報道のカメラが二階正面にカメラを向けていた。最前列が空いていたのだが、やはり、というか皇太子ご夫妻が入られる。さすが、オランダ王立オケ。
で、お迎えしての一曲目が「じゃじゃ馬ならし」…というのは、もう何といえばいいんだろうか。まあ、R.シュトラウスを連想させる軽やかな曲でさらりと。
続いての「火の鳥」は、凝縮された音楽と卓越した管楽器を楽しむことができた。東京文化の、幾分乾いた響きが木管の巧みさをいっそう印象付けている。
そして、休憩を挟んでのチャイコフスキーに。
5番のシンフォニーは、アマチュア・オーケストラが演奏して「成功確度の高いシンフォニー」のトップクラスだと思う。(ただしファーストホルンが吹ければ)つまり、少々青臭いところがあって、フィナーレのコーダは、普通に演奏できれば普通以上に受ける。
逆に言うと、プロフェッショナルが取り上げるには意外と難しい面がある。熱くなれば、「そこまでやらなくても」という感じになるし、サラリとやると不満が残る。
ヤンソンスは毎年のように聴いているが、やはりロシア系の作曲だと「スイッチが入る」ことがあるので、今回はこのプログラムを選んだ。

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