今年最初の舞台は、3日の名古屋能楽堂から。「翁」から新年をスタートできるといのは、いかにもありがたい。初めて観たのだが、天下泰平・五穀豊穣を祈る舞は、どこか横綱の土俵入りを連想させる。
名古屋能楽堂はゆとりのあるつくりで、正面舞台の鏡板は「若松」。能舞台は普通「老松」なのだが、ここでは依頼を受けた杉本健吉氏が若松を描いた。当然のように物議を醸して、結果として老松の鏡板も作られて、1年おきに使用されるようになったそうだ。(ただいろいろいな方のブログを参照すると、今年は老松のようなのだが正確な運用はわからない)
この話を聞いた時には「なんと保守的な」と思ったのだが、実際に観てみるとどこか違和感がある。それは、この絵が天に向けたベクトルを持っていることが理由なのではないかな。老松の水平のベクトルが舞台に安定感をもたらすのとは対照的だ。
正月気分が残る7日は、新春浅草歌舞伎。近年は尾上松也を筆頭格に演じられている。
「三人吉三巴白浪」から「土佐絵」の舞、中入りを挟んで「与話情浮名横櫛」より源氏店の場。妻の友人が「宝塚の新人公演みたいなもの」と言っていたらしいが、よくわかる。あまり巧拙を語るのも野暮になるので、まあ正月の縁起物と思えば十二分に楽しい。毎年観ていれば、一人ひとりの成長ぶりが感じられるて、それも一興だろう。
冒頭の米吉の挨拶は、大学を「自主的に卒業した」と笑いをとってから「残念なことに、いま流行りの“卒論”を書けませんで」で爆笑。いつも思うのだが、歌舞伎役者の俗っぽさのセンスっていいんだよね。 >> 最近の舞台から~【2016年1月】の続きを読む
雪こそ降らなかったけれども、今日の東京の空はどんよりとしている。
関東平野の冬は、ちょっとくらい寒くてもよく晴れることだけが取り柄だ。そういう街で育ってきたので、こうも雲が重いのは苦手である。
しかし、欧州の冬はそんなものではない。もちろん、日本でも地方によっては冬に晴れ間の少ない地域はある。しかし、緯度の高い欧州は、寒さと暗さに加えて日が短い。
だから、というだけではなないのだろうが、冬に聴きたくなる音楽は多いように感じる。
というわけで、今日は冬のピアノ曲。グールドがロマン派以降の作品を弾いたアルバムから何点かを引っ張り出してみた。
グールドというと、バッハの一連の演奏を思い浮かべることも多い。僕も仕事の時、とりわけ長文を書くときによく聞いている。バッハの演奏では明晰なイメージが強いけれども、ロマン派以降の作曲家だと、もう少し独特の“揺らぎ”や“ためらい”のようなものがある。ただ、それを「ロマンチック」と言ってわかった気になるのも、どこか違う。寂しさと温かさが、普通に同居している。そんな人間の日常が感じられるのだ。 >> 冬に聴くグールド~ブラームス、シベリウス、そしてリヒャルト・シュトラウスの続きを読む
一週間でマーラーとブルックナーを聴くと、さすがに疲れる。月曜日にムーティ=シカゴ響の「巨人」、木曜日にスクロヴァチェフスキ=読響でブルックナーの8番。特にブルックナーのあとは、ホールを出てからも何度も「フゥ~」と息をついて、その後のビールが、妙に進む。もう、スポーツの後と同じような、心地よい疲労感だったのだ。
それにしても、「ブルックナーやマーラー」というように一括りにされるのは、ちょっと不思議だ。歳はブルックナーが36歳年上で、親子ほど違う。長大な交響曲を書いたということが共通していて、1970年代半ばころから段々と演奏会や録音の機会が増えてきたときに、なんとなく「セット」になったのかもしれない。
検索すると「マーラー ブルックナー 違い」というワードが候補になるのも、なんとなくわかる。妙ではあるが、並び称させれてしまうことが多いのだ。
ただ、それぞれの「ファン」には特徴がある。どちらも好きという人ももちろんいるが、マーラーが好きな人の中には、「ブルックナーは苦手」という人がいて、やはり単調に感じてしまうらしい。
一方で、ブルックナーを崇める人の中には、マーラーをあからさまに嫌う人がいる。マーラーの音楽は計算的設計されていて、その辺が「チャラチャラしている」と感じるらしい。
でも、この2人の想念には相通じるものがあるんじゃないか。最近そう感じるようになった。 >> 【音の話】踊るマーラーと、微笑むブルックナー。の続きを読む
読売日本交響楽団 特別演奏会 ≪究極のブルックナー≫
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
2016年1月21日 19:00 東京芸術劇場 大ホール
ブルックナー/交響曲第8番 ハ短調
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ブルックナーのいい演奏は、上質のスープのようなものだと思っている。長いこと時間をかけて作られた、ブイヨンや白湯をベースにした滋味あふれるおいしさを連想させる。
そのスコアを見ればすぐにわかるが、音符の絶対数が多いわけではないし、指示記号も詳細ではない。
だからこそ、スープの作り方が大切になる。地味だけれど、これを大切にする料理人が一流と言われるように、卓越した指揮者は曲に通底する「出汁」を丁寧につくる。それはオーケストラの音を、丁寧に積み重ねて、濁らない響きをつくり出し、かつ楽器のバランスに細心の注意を払うことになる。
その根気を忘れて、調味料に頼ったり、ましてや香辛料を加えてはいけない。丁寧に灰汁をとって、澄んだスープをつくる。
そうやって創り上げられたブルックナーは、決して大仰ではなく、悲痛でもなく、まして扇動などもない。淡々とした音楽が、静かな昂揚をもたらしてくれる。そんな演奏会だった。
この演奏会は、「究極のブルックナー」と銘打たれていたけど、あえていうなら「ありのままのブルックナー」というかんじだ。安易に「深い精神性」や「深遠な響き」と評されつつ、単に楽譜を無視して、大雑把なアンサンブルの演奏とは全く異なる。
また、高齢であるというだけで、ありがたみを感じる人には、物足りないかもしれない。
スクロヴァチェフスキは、いい意味で「普通の指揮者」であり、だからこそブルックナーの音楽が、自然に沁みてくる。
オーケストラは、弦楽器、特に中低弦の厚みがしっかりしていて、集中力が途切れない。全曲を通じて、もっとも印象的だったのは3楽章で、息の長いメロディが大きなうねりになって、いつまでも終わってほしくない、と願ってしまう。
スクロヴァチェフスキは、この曲を大きく3部でとらえているのではないか。1楽章と2楽章をアタッカで演奏するが、それによって、3楽章が曲の中核であり結節点であることが浮き彫りにされる。そしてフィナーレを一気に快速に振ることで、より対比が明快になるという狙いなのではないだろうか。
なお、最後に指揮者がタクトを下す前に、一部で拍手が起き、しばらくして止まり、ややおいて再度拍手となった。もう少し待って欲しかったとは思うが、そのフライングを止めた無言の空気圧がすごかったことが、この夜の緊張感を象徴しているようにも思う。
シカゴ交響楽団 日本公演
指揮:リッカルド・ムーティ
2016年1月18日(月)19:00 東京文化会館 大ホール
ベートーヴェン/交響曲第5番 op.67 ハ短調
マーラー/交響曲第1番 ニ長調『巨人』
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開演前から、妙な緊張感が漂っていた。前夜からの雪もあって、客は早めに到着している。ムーティがシカゴ響音楽監督就任後の初来日で、一曲目がベートーヴェンの5番。
そして、タクトが振り下ろされる。
(あ、合ってない…)
有名な動機が、モゴモゴとした響きになる。ちょっとオケが暖まっていなかったのか、リピート後はシャキッとしてきて、2楽章はたっぷりと弦が歌い、スケルツォの低弦は豊かに響いて、ティンパニーがジワジワくるのだが、ここまでの印象は「ややゆったりと室内楽的なベートーヴェン」だった。
ところがフィナーレに入ると、「速ッ」と心の中で叫ぶ。ああ、さすがムーティ。ここまでの音楽が抑制的だったのは、この一瞬の解放のためだったのか。ベートーヴェンの5番は、冒頭こそ有名だがそうそう鳴るわけではない。ところが、フィナーレでトロンボーンが加わり、ティンパニーとトランペットが要所を締めて、弦の内声を強めると一気に迫ってくる。一気に畳み込んで、終結へ。これだけで、いい疲労感が残る。 >> 圧巻の千両役者、ムーティとシカゴ響。の続きを読む