2016年3月28日19:00 ヤマハホール
モーツアルト/ピアノソナタ 第14番 ハ短調 K.457
ベートーヴェン/ピアノソナタ 第21番 ハ長調 「ワルトシュタイン」Op.53
ショパン/24の前奏曲 Op.28
(以下アンコール)
ドビュッシー/前奏曲集 第1集 6番 雪の上の足跡 同/前奏曲集 第2集 12番 花火
同/前奏曲集 第1集 10番 沈める寺
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日曜の夜に、「なんか明日にもで軽く室内楽系のコンサート行きたいな~」と思っていろいろ調べてたら、ヤマハホールでいい感じの企画があったので行くことにした。予約画面から座席選択画面を見たら2階最前列が空いている。
ティベルギアンは何度も来日しているようだが、聴くのは初めてだ。ちなみに新装したヤマハホールに行くのも初めてである。舞台上にはヤマハのコンサートグランドだ。
長身で黒いシャツに、軽い色のジャケットとパンツでスッとあらわれて、まずモーツアルト。柔らかい音楽づくりだが、長い休符の後に、独特の間があって次の音へとつながる。どこかで聞いた感じだな、と思ったけれど、シューベルトのソナタのようなのだ。自在で闊達で、歌が溢れている。
フィナーレは、よりカチッとまとめている印象だった。
ベートーヴェンになると、明らかに神経質になっている。モーツアルトの時よりも背をかがめて鍵盤を凝視するようにして、ワルトシュタインの和音が鳴り始める。 >> 自在で闊達、また聴きたくなるティベルギアンのピアノ。の続きを読む
夜に「月に憑かれたピエロ」の夢幻能公演があるのだが、少し早目に出て、東京都美術館の「ボッティチェリ展」に行った。
駅を降りると、大きなポスターの下で年配の女性グループが話をしている。
「ああ、私はこんな優しい気持ちにはなれないわ」
何かと思ったら、ボッティチェリ展のポスターの「聖母子」を眺めながらの会話だった。いや、なんといっても彼女はマリア様である。まあ、絵を見て感じる思いというのは、それにしても人それぞれだ。
ボッティチェリの作品はフィレンツェのウフィツなどでも見たことはあるが、改めて見た感想を一言でいうとどうなるか。
「本当に絵がうまい」
大変アタマの悪そうな感想で申し訳ないが、それがしみじみとわかる。それには理由があって、まずはこの展覧会の構成がボッティチェリのすごさを際立たせるようになっているからだ。
最初のコーナーでは「ラーマ家の東方三博士の礼拝」が出迎えるが、次の部屋では師のフィリッポ・リッピの作品が並ぶ。そして、ボッティチェリの作品群が連なり、次には氏の息子で自らの弟子でもあるフィリッピーノ・リッピの作品となる。
フィリッポの少々生硬な筆致のあとで、ボッティチェリの鮮やかさに瞠目する。一方で、後に続くフィリッピーノの柔らかな仕上がりを見ると、ボッティチェリの精妙さが際立つ。そして、ポスターにもなっている「書物の聖母」と「美しきシモネッタの肖像」の2点が、この展覧会の頂点になるように自然に設計されているのだ。
工房の作品もいくつかあるが、絵の奥行きと光彩の鮮やかさが全く異なる印象で、それもまたボッティチェリの作品群を引き立てている。
そして、今回「うまい」と思ったもう一つの理由は、久しぶりに見た西洋絵画ということもあっただろう。 >> やっぱ、ボッティチェリは「うまい」!の続きを読む
夢幻能《月に憑かれたピエロ》というタイトルを見て、「おお!」と思うか、「なんだそりゃ」と思うか。僕は前者だったからすぐにチケットをとって行ったんだけれど、似たような人は結構いるようで東京文化会館の小ホールは満員だった。3月24日19時の開演で、ソプラノは中島彰子。この企画自体は既に何度かおこなわれているようで、演出も彼女の手になるもののようだ。
能管から始まるが、その後いったん静寂の中からシェーンベルクとなる。笛の他も大鼓・小鼓に、地謡が加わるが、音楽的に両者は交わらない。ごく一部、シェーンベルクの演奏中に能管が重なるところがあったようだが、基本は、曲間に能が演じられて、奏されるつくりになっている。
段々と一体感が出てきて、二幕の最後などは夜叉の姿のシテとピエロが舞台上で交錯して、中島が「Kreuze!(十字架)」と叫びながらか客席に走り降りて、静寂から次につながるという構成だ。
想像以上に違和感のない構成で、音楽と舞は十分に楽しめた。アンサンブルの質も高く、チェロの柔らかさや、クラリネットの鋭さを包み込む小ホールは素晴らしい。
賛否が分かれると思われるのは、舞台スクリーンに映され続けられるムービーだろう。字幕が出るのだが、対訳ではないので中途半端な感じを受けるし、いきなり「月」そのものが映されるなど、少々「絵解き」の演出も多い。
アート畑のプロだったら、少々苛つきながら見るのではないかと思う。ただし、何もないというのも、抽象的に過ぎるのではないだろうか。 >> 夢幻能「月に憑かれたピエロ」から「名取ノ老女」へ~東京の舞台よりの続きを読む
今世紀に入った頃から、世界史の「仕組み」を俯瞰するような本がいろいろと出ているように思う。
その理由はいろいろと考えられるが、やはり冷戦の終結は大きいのではないだろうか。社会主義に一定以上の可能性を感じていた時代には、マルクス史観の影響力も大きかった。その呪縛が解けて、もう一度歴史のダイナミズムを研究して、かつ一般読者にもわかりやすく書いた本が、欧米発で生まれている。
一方で、そうした本の中身を若い人に紹介すると、結構興味を持つ人が多い。情報が溢れる中で、「そもそも」の話を知りたい欲求も強いのではないだろうか。
そうした仕組みの観点から、斬新な視点を提示したのはジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)だろう。日本版は2000年の発刊だから、ある意味では、定番の本でもある。賛否を含めて、まず一読してみる価値はある。文庫になっていて、kindle版もあるので求めやすいのも魅力だ。
「16世紀にピサロ率いる168人のスペイン部隊が4万人に守られるインカ皇帝を戦闘の末に捕虜にできたのはなぜか?」
そのような、征服と被征服の原因は「銃と軍馬」にあるという。では、その差はどこから生まれてきたのか?
ここで、著者が最も重視するのは地形や生態などの「環境の差」だ。たとえば、食糧生産の伝播は東西には早く伝わるが、南北には遅い。このような差が、長期的には文明の差になっていく過程を解き明かす。
ただし、すべてを環境に帰していくような考え方には、当然異論もある。 >> いま世界史の本がおもしろい①の続きを読む
僕がオーケストラのコンサートを聴いたのは40年近く前からになるけれども、日本のオケは相当達者になったと思う。
1980年代頃までは、オケによっても水準のばらつきがある上に、器も多目的ホールが殆どだった。ロンドンのオケが来て日比谷公会堂で演奏していたのだから、隔世の感がある。ああ、こんな言葉が違和感なく使えるほどに歳をとったということか。
いっぽうで、その頃は海外オケが圧倒的にうまかった。そして、高い席から売れていった。いつからか、安い方から売れるようになったのは、聴き手の感覚もあるだろうが、いいホールができたことも大きいと思う。席による音響的な差が縮まったのだ。
とはいえ、物見遊山のようなオケも結構あったし、来日オケがバブル状態になると玉石混交であることもわかってきた。
そして、日本のオケは着実に力をつけてきた。いろいろ理由はあると思うが、教育の差は大きいだろう。考えてみれば、戦前に教育を受けたような人が第一線を退くのが、ちょうど80年代である。その世代は、奏法についても情報が少なく偏っていたし、気質的にも職人肌なので組織的には停滞してしまうわけだ。
そんなわけで、僕も近年は日本のオーケストラの定期演奏会のメンバーだったりしたが、十分に満足していた。最近は、定期会員ではないが時折足を運ぶ。最近だと、東フィルの第九のような雑な日もあったが、読響のシベリウスのような卓越した演奏もある。まあ、だいたいに応じて、十分に楽しめる。 >> このままだと、日本のオーケストラはヤバいと思う理由。の続きを読む