歴代のソニー製品を回顧するこの催しは、「It’s a SONY展」と銘打っているが、そもそもこのサウンドロゴを知っている人は一定の年齢以上だろう。平日の17時過ぎということもあって、会場内にいる人はリタイアした年代の男性が殆どだった。
僕が物心ついた時、というかこうした機器に関心をもつ小学校高学年から中学生の頃、ソニーというブランドには別格な感じがあった。
まずはラジカセを欲しくなり、いろいろなメーカーの製品を見ると、圧倒的に洗練されたカッコ良さがある。
もっとも思い出深いのは、この展覧会にもあったスカイセンサー5900で、これは父が質流れで買ってきた。相当活躍して、海外の短波放送を聴いていた。BCLというのが流行っていたのだ。
そして高校に入った年にウォークマンが発売された。ただ、その頃以降から僕はソニー製品にあまり関心を持たなくなったような気もする。もしかしたら、その方が「通」のように感じられたからかもしれない。でも、いま見るとウォークマンの広告はその頃の記憶を甦らせてくれる。時代を映した製品だったことは間違いない。
それだけ、存在感のあるブランドだったのだ
ソニーを巡る日本人の心境は、なんとも複雑だと思う。いわば「ソニーコンプレックス」とでもいうのだろうか。90年代までは日本を代表するグローバルブランドとして誇りに思う気持ちと、どこか「いいカッコして」という嫉妬が入り混じった感じがあったんじゃないだろうか。
そして、その後経営の迷走が続くと「ほれ見たことか」という気分と、「もう一花咲かせるだろう」という期待感が交錯する。そういう相反する感情が、1人の中でも起きているんじゃないかと思う。
そうだ。社会人になってからずっとソニー製品には縁遠かったんだけど、初めて買った携帯電話はpreminiで次のモデルもそうだったことを会場で思い出した。
会社を辞めるまで携帯電話を持っていなかったので、あれが初めてだったんだな。
独立した手探りの時代は、ソニーと一緒だったのかと改めて気づく。
そして、この展覧会を見た後の気持ちは何とも複雑だ。ある時期までは選択肢に「ソニーしかない」という製品カテゴリーがあったのだ。いまでもゲーム機の一部などはそうかもしれないが、他のカテゴリーでは圧倒的な機能優位は感じられない。
そんなことは、とうに分かっていたはずなのに、「いったいこれから何を生んでいくんだろう」ということはやはり気になる。そして、なんとなく不安になる。
ソニーの歴史は日本を象徴しているし、これからもそうなのか。それとも、もう関係ないのか。
ソニーの歴史を振り返り未来を想像することは、自分を来し方行く末を考えることになる。それが不安の正体なのかもしれない。
昨年末の押し詰まった頃に、とある飲み会に出た。大学で所属していたサークルの現役と卒業生が集まったのだ。
毎年50人くらいは部員のいる団体で、この夜に集まったのは全部で50人程度。そう書くと、寂しいようだがそういうわけではない。これは、オーケストラの中のパートの会で、ホルンという楽器を吹いていた者ばかりが集まったのだ。
サッカーのサークルで「ゴールキーパー会」があったり、野球サークルで「遊撃手の集い」があるのか知らないが、まあそういう感じのものだ。最年長の方は還暦を超えていて、現役もいる。半世紀にちかい年齢差があって知らない人もたくさんいるのだが、すぐに盛り上がる。
「ザイフェルト」とか「クルスペ」とか「ティルツ」とか「新日本紀行」とか、謎の言葉が飛び交うビンゴもあって、まあ傍から見れば異様だっただろう。
それにしても、僕にとってはとても新鮮だった。何でだろう?と考えたのだけど、これほど世の中の俗事と無関係になることがずいぶん減っていたからだな、と思った。
人はそれぞれ、どんな世界にいるのか?勤め人であれば、平日は会社を中心に生活が回るだろう。もちろん家庭もあり、週末には趣味の集まりもあったりして、大概は複数の集団に帰属しながらバランスをとっている。
ただ、一方で何となく「メディアを通じて浸かっている自分なりの世界」というのがあって、SNSを日常的に使うようになってから、その影響が強くなったと思う。
僕の場合だと、マーケティングやメディアあるいはキャリアに関する仕事をしているので、SNSでもそれに関連した情報を発信する人が多く、やり取りもされる。だから昨年の後半は、電通やDeNAの事件に関することがことさらに増幅されてくる。米国大統領選をめぐる情報戦の話題も多い。
ネットというのは、個別にチューニングされたイコライザーのようなもので、特定のニュースや話題がどうしても分厚くなっていく。だから、「メディアのこれから」というのは、僕の日常ではとても大切な問題で、世間もそう感じているように思っていた。 >> 謎のホルン会と、メディアの人面瘡について。の続きを読む
「本質的」という言葉がある。
辞書を引けばそれなりの定義があるけれど、これは結構難しい。
「これからのIoTの本質を突いている」という大上段な話から、「スープの本質を知っているラーメン」までさまざまだ。
そして、「生きることの本質」とかいう言葉を、簡単に使う人もいる。
最近ネットメディアを巡る事件が目立ったが、「そもそもメディアとは」というような議論も目立ってきた。メディアと言いつつ、実は「プラットフォームじゃないか」という指摘もあれば、そういう話にもなるだろう。
まさに本質的な話だ。
ところが、一部にはこういう本質的な話をすると思考が止まる人がいるらしい。「理屈っぽい」「難しい」と感じてしまうようだが、傍から見ていると往々にして理解しようとする気がないらしい。
つまり「本質とは」と突き詰めて考えたことがないのだろう。
たしかに、「本質」という言葉を議論するのは根気がいる。ただし、マーケティングや広告、特にブランドに関するミーティングはこのような繰り返しだ。
なにか企画を考えて説明したとする。すると先輩がいう。
「面白いけど……それってこの商品の本質じゃないだろ?」 >> 「本質を考える」は、「自分の辞書を豊かにする」こと。の続きを読む
シュトーレンが、流行っている。いつから、というわけでもないが気がついたら、クリスマスの新しい定番になっている感じだ。
ドイツのクリスマス、というのは「クリスマス・マーケット」のイメージなんだろうけど、六本木ヒルズで結構前からやっていたように思う。調べてみたら、今年が10周年らしい。
それだけが理由じゃないだろうけれど、シュトーレンが流行るのは、いまの日本のクリスマスを映している気がする。
そもそも、日本におけるクリスマスを真面目に論じることをはあんまり意味がないと思う。最近のハロウィンもそうだけど、「欧米では」と言っても仕方ない。ケンタッキーに行列は「変だ」と言う人もいるけど、日本は海外の祭りを飲み込むことについては相当達者なんだろう。
それにしてもシュトーレンは、いまの日本らしいなあと思う。クリスマスケーキと言えば、イチゴの乗ったホールケーキが定番だったし、今でもそうなんだろうけど、基本的には子どもが喜ぶものだ。
少子高齢化で、世帯人数が減って、ああいう生菓子を一気に食べるのは大変になった。別に統計はないかもしれないけど、長期的にみれば減っているのだろう。
一方で、シュトーレンはまったく違う。クリスマスまでの間に食べるものだ。日持ちがするし、少しずつ食べていけばいい。1人暮らしでも楽しむことができる。
大概はラム酒を使っているので、いわゆる「大人の味わい」だ。華やかさよりは、滋味を楽しむケーキだと思う。
ただ、シュトーレンはキリスト教と密接に結びついている。アドベントという、クリスマスまでの約4週間ほどの間に食べていくという習慣の菓子だ。
アドベントは待降節などと言われるが、教会に通っていればこの期間が特別なものであることがすぐに感じられる。アドベントの始まりは日曜日になるので、その日の礼拝から「クリスマスを待ち望む」気分が段々と高まっていくのだ。 >> 「クリスマスにシュトーレン」って、いまの日本らしい流行りだなあ。の続きを読む
もう、メディアというのは「残念な仕事」になってしまったのだろうか。
電通のデジタル不正からDeNAの今回の事件で、デジタル分野は大きなダメージを受けたけれども、マスメディアの信頼が上がったり、接触が回復したという感じもしない。たまたま、事件がデジタルで目立ったけれど、朝日新聞の一件などはまだ重くのしかかっていると思う。
感じるのは、「志」が低いなあ、というか「志」という概念自体が、もうないんだろうなということだ。
何でかな?と思うと、メディア産業がいろんな意味で「立派」になり過ぎたような気がする。そして、「これからはメディアだ」という時代の気分が、もうバックミラーの彼方になっていることと関係しているようにも思う。
「脱工業化」という言葉が、あった。「あった」というのは、もうそういう感覚でもないし、いまも工業だってちゃんと存在している。だから、ある時期の流行り言葉であったとは思う。
でも、その頃のメディア関係者は「本当にそういう時代になったら、どうすればいいいんだろ」とビビッていたようなところもあったと思う。
その辺りの感覚を知るには、梅棹忠夫の「情報の文明学」という一冊がいいと思う。 >> メディアの「志」を確かめるために~「情報の文明学」の続きを読む