「AIスピーカー」が続々発売されるという。というかされている。
ここに来て、パナソニックとソニーが新製品を発表した。LINEのWAVEも既に発売されている。
ただし、ニュースになっているのは日本企業が動き出したからであって、海外では相当「あたりまえ」になっている。Google Home vs. Amazon Echoのような動画はたくさんあって、見ていると何となくイメージがわかる。評価する方も、両社に気を遣っているような感じだ。
で、このニュースは日経も熱心に取り上げているんだけど、一つ気になったことがある。それは「AIスピーカー」というカテゴリーになっていることだ。調べてみると、日経以外のメディアでは「スマートスピーカー」が多いようだ。
しかし、ふと気になる。この製品は「スピーカー」なのか?
たしかに、スピーカーなんだけど、彼らは話を聞いてくれる。いや、ついつい擬人化したくなるけど、それこそがこの製品のユニークさじゃないか。
ちなみに、僕が仕事をしている中で、この手の話に詳しい人はたいがいVPAと呼んでいる。Virtual Personal Assistantの略で、アップルのSiriやアマゾンのAlexaのように音声コミュニケーションによるサービス全体を指している。 >> それはAI「スピーカー」?アシスタント?それとも?の続きを読む
先月、「ブランド」についての、レクチャーを久しぶりに行う機会があった。まあ「ブランディングとコミュニケーションの仕組み」というような話だ。
あらためていろいろと調べてまとめてみると、インターネットの影響は当然でかいのだが、何がどう影響しているのか?ということについては散発的な議論になっているように思う。
そして、今回改めて思ったのは、「記憶」の話がちょっと難しくなってるな、ということだった。
ブランディングは、ブランドを「強く」することが目的だ。で、この「強さ」の正体は人々の「記憶」とされていた。ブランドに対する記憶を良好な状態にメインテナンスすることで、購買時に優位に立てますよ。
そういう理論の下で、「コミュニケーション戦略を考えましょう」という話になった。それは1998年頃だから、ウワっもう20年前か。そして、その頃の「コミュニケーション」の多くはマスメディアを使ったもので、形態としては殆どが広告だった。
というわけで、広告会社は続々とブランディングを唱え始める。まあぶっちゃけて言うと「そのためには広告ですよ」という“落としどころ”を狙ったわけだ。 >> 強いブランドに「良い記憶」は必須なのか?の続きを読む
平尾昌晃氏が旅立たれた。
あれだけの曲を作っていただけのことがあり、見出しもさまざまだ。「カナダからの手紙」というメディアもあったが、個人的には「瀬戸の花嫁」かな。
1972年というから、小学3年生の時だ。
「瀬戸ワンタン しぐれ天丼~♪」という替え歌が流行っていたが、ネットで調べると微妙に違うバージョンがありながら、結構広く歌われていたらしい。エリアごとに違ったりするのか、柳田國男が生きていたら調べてくれたんだろうか。
改めて小柳ルミ子の歌を聞いて楽譜を確認すると、なるほどなと思うことがあった。
「瀬戸は」の“は”や、「しぐれて」の“て”は、二分音符だ。しっかり伸ばすことになっている。
しかし、実際の歌は違う。伸ばすこともあれば短めに余韻を持たせることもある。だから、その隙間に何か食べ物の名前を入れることを思いついて、あの替え歌ができた。
言葉に余韻を持たせた作曲だからこそ、誰にでも口ずさめる名曲になった。そして、演歌でもポップスでもないメロディーを作り出したのだから、やはり時代を読むカンも鋭い人だったのだろう。
ただ、この歌詞の世界が「ちょっと古いんじゃないか」というのが、子ども心にも感じていた。 >> 「瀬戸の花嫁」をマーケティング的に語ってみる。の続きを読む
先日、自宅の近くを歩いていたら結構大きい箱が捨てられていた。黒い箱に、白抜きで「ZOZOTOWN」の文字。
誰が見てもZOZOTOWNの箱だ。僕も受け取ったことがある。で、この箱は買った人が捨てたのだろう。すぐ近くに段ボール箱の集積所があるのでとりあえず持っていった。何も、こんな目立つところに捨てなくもいいのになあ。
と思っていたら、一週間後に別の場所に箱が捨てられていて、またもやZOZOTOWNだ。一緒に別の箱も捨てられているが、これはどこの箱かわからない。
これは、偶然なのだろうか。多分、そうだろう。しかし、ブランディングって難しいもんだよな、と改めて思う。
この捨てられてる箱を見た人は、どう思うだろうか?
「ああ、ZOZOで買ってる人って“こういう人”なのか」
こういう人がどういう人かは分からないけれど、まあ全体的には年齢が若いことは推測できる。そして、「ちょっとダメな人」なんじゃないかと思うだろう。 >> なぜ、ZOZOTOWNの箱は道端に捨てられるんだろ?の続きを読む
先日、自宅の呼び鈴が鳴った。十中八九は届け物だし、心当たりもあったわけでそのつもりでボタンを押す。
「アマゾンです」
そう。たしかにアマゾンで頼んでいたのだけれど、違和感がある。そうか、今までだったら「ヤマト運輸です」だったのだ。
そして、「アマゾンさん」は紺色の服を着たどこかの配送業の方だった。その後も、同じ方がやって来る。でも、僕にとっては、「またアマゾンを届けてくれた誰か」である。
一方で、ヤマトの場合は「誰が届けてくれるか」がわかっていた。家に一番来るヤマトの人はKさんで、最近は女性のNさんもいる。その前はMさんやTさんだった。自宅で仕事をしていることが多いので、結構顔見知りにもなる。
つまり、僕にとって「アマゾン」という“便利な”ブランドは、ヤマト運輸の彼らによって成り立っていたのだ。「アマゾンという何だかすごいシステム」は遠くにあるが、それを「現実化している人」として、ヤマト運輸のドライバーとの間には、ある種のエモーショナルな絆が成立していたことを改めて感じだ。
そういえば送り主のトラブルで配達が遅れた時なんか「すいません」「別にいいですよ」とかやり取りしていて、単に配送者と客という関係じゃなかったんだな。
一方で、「アマゾンです」と言ってくる彼は誰なんだろう?
運輸会社も、ましてや名前もわからない。今度不在者伝票が入っていたら、確かめられるのかもしれないが、あの匿名の「アマゾンさん」は何か引っかかる。
SF的に考えると、アマゾンというアンドロイドだったりして。というか、将来はそうなるんだろうな。
とはいえ、そんな妙な喪失感を味わうのもいっときのことだろう。物流の合理化はさらに進まざるを得ないだろうし、「人と人の接点」というのもなくなってみれば、意外にもすぐ慣れる。
そういえば服を買う時も、知っている店員のいる店に行かないで、ネットで済ましたりしてるよな、と思っていたらこんな本を知った。
『宅配がなくなる日』というタイトルだけど、宅配の話に続いて三越伊勢丹の問題が論じられている。一見すると関係なさそうなこの2つのテーマだけれど、サブタイトルの「同時性解消」という言葉がカギとなっているのだ。
電話とメールなどが典型だが、「同時に複数の人を拘束する」ということが解消されていく中で、どのようなビジネスの機会が生まれるかを論じた一冊だ。著者はフロンティア・マネジメントの松岡真宏さんと山手剛人さんである。
既に「そうだよな」と思っていたこともあるけれど、もちろん気づかな点もある。そして、実はこの「同時性解消」についてきちんと論じた本は今までなかったんじゃないか。そこを起点にして将来を考えるというのも、おもしろい。
人口減少社会における、新しい切り口の提言もあって、これからのマーケティングにおける1つの視点としても大切な切り口の一冊だと思う。