来年の7月に予定通りに地デジに移行すると、テレビメディアの価値はどうなるのか?ということについては「現状より上がる」という人が多い。僕も基本的にはそう思っている。
大画面のテレビが普及して高画質のコンテンツに接して「なかなかだな」と実感する人が増えているからだろう。
そんなおり、電通の澤本嘉光氏のインタビューを読んだ。地デジ化がテレビCMの「追い風」になるという主旨のお話。このページのあたりを読むと論旨はわかるだろう。
さて、この澤本氏の主張は「なるほど」という面もあるのだけれど、1つの仮説である。それ以外にどのような仮説が立てられるか?というのはコンサルタントの「仮説構築力」のテストになるかもしれない。
まず、澤本氏の論旨を仮説Aとしよう。
仮説A. テレビが大きくなると家の中心にテレビを置く。すると、そのテレビがいいものだから、家の中心に家族が集まるっていう状況になる。また各個人の部屋にあったテレビは全部見れなくなって、ただの「ハコ」になる。だからテレビ見たいんだったらもう1台買うか、家の真ん中のでっかいのを見ることになる。視聴率が上がるかどうかは別として、単純に人と一緒にテレビを見ている時間が延びる。そしてチャンネル争いも起きる。
チャンネル争い、というのは結果的にテレビへの関与度を向上させる、というわけだ。
さて、2011年の7月に起きることは他にどのような可能性があるだろうか。
以下、別の仮説。
新刊を出した。
とりあえず、読者の声。
「ここまできっちりマーケティング思考について整理されて書いてある本は初めてだと思います。」(大手広告会社役員)
「コンパクトにまとめられたケースの分析視点に鋭いプロの洞察を感じられ、学ぶことの多い1冊だと感じております。」(大学教授)
自画自賛も恥ずかしいので、とりあえず世間の声を乗せてみた。いや、多分そういうことなんだろう。きっと。
この本は「マーケティング演習ノート」という実に堅実なというか、ありそうでなかったタイトルである。
自分のブログで自著を宣伝するのはあまり気が乗らないのだけれど、この本は結構ありそうでなかった、という意味で画期的な気がしている。(どうしても断言しにくい)
まず、ケースを徹底的に近年の日本国内事例にしていること。しかも「自分の買い物」「タウンウォッチング」などのケーススタディで、大学の講義や企業研修を再現しつつ、理論の適応が学べること。国内の人口統計や世論調査などを多く盛り込んでいるので、現実の動向を俯瞰できること。
などなど。
基本的にはビギナー向けのつもりなのだけれど、ある程度経験を積んだ人が整理するにもいいと思う。
大学のテキストという面もあるので、ある程度定着しているセオリーの紹介が中心になっている。したがってやたら新しいことを追っているわけではない。
でも、いい本だとは思ってます。いや、ご判断は皆様で。アマゾンへのリンクだけ張っておきますので。
ワールドカップの「日本×オランダ」戦の視聴率が想定以上に低かったという。
NHK衛星の影響はかなりあるのだろう。アナウンサーが「CMはありません」と言ったのが原因だと報じる向きもあるけど、そんな発言はおそらく関係ない。
単に民放のスポーツ中継を嫌いな人が増えていると言うことだろう。
それは放送する側の方法論が通用しないと言うだけの話なのだけれど、これがスポンサー側にとって見ると、いろいろと問題が多い。一番困るのが、BSのインパクトがきちんと測定されていないことにある。
現在の測定方法ではBSはUHFなどと同じ「その他の局」扱いだ。一般にBS自体の視聴率は低いのだろうが、今回のようなケースだと地上波にカネを払う側としては「やってられない」ということになりかねない。
そもそも、オリンピックなどでもその傾向は出ていて、裏でNHK-BSが放送している場合は、地上波が思ったように数字をとれていなかったりする。
現在のペースで地デジ対応がすすんでいくと、来年以降は多チャンネル化が本格化する。地デジというと「アナログ停波」が話題になるけれど、本質的には多チャンネルのインパクトが大きい。人口の減っている国で多チャンネルというのは、どう考えても単価の下落を招く。
それに、NHKの影響は今後強まるだろう。基本的に不況でも急速に総収入が低下するわけではないので制作費を削ることもない。クオリティの差はますます開いていく。
また広告主によっては「NHKの視聴者」というのは、結構大切なお客さんでもある。
来年の7月以降に起きることは、結構想像のつかないことも多そうだ。
外で食事をする時、インターネットの情報はあまり見ない。
たしかに平均ポイントは大体の目安をあらわしていると思うが、書いてある文章を見ると「さもしい」感じが漂うからで、もっともこれは実名のサイトだとあまり感じない。
じゃあ、なんで外食評論サイトの文章にこの「さもしさ」が漂うのか。それは、「おいしいものを食べたい」という気持ちより、「損したくない」という気持ちが露骨だからだと思う。
こうした文章、特に不満を述べる人々には共通したところがある。
「前評判に比べて、それほどとは思わなかった」
「~のガイドで★★というのは、過剰評価ではないか」
つまり、こういう人は事前に仕入れた情報との「答え合わせ」をすることに躍起になっている。きっと一皿ごとに答え合わせをしているのだろう。それで本人は満足なのかもしれないが、そのプロセスを読むのは痛々しい。
より満足する消費行動への「手段」としての情報は、増えるばかりである。ところが、この情報は、消費に対する「期待値」を決定する。そして消費の満足は、絶対値で決まるのではなく「期待値との差」で決まるようになってしまった。
これは、外食関連だけではない。ホテルなど宿泊施設の評価や、電器製品の評価まで同じ構造になっている。
「過剰な情報探索は、人を幸福にしないのではないか?」
これは、もう気づいている人が増えているのかもしれない。
たしかに、還暦をすぎた知人でネットも携帯も持っていない夫婦がいるけれど、彼らの生活は十二分に豊かに思えるし、何より情報不足で損をしているようには思えない。
「情報を使いこなすことが良い生活を実現する」という「情報」を発信する人は、「情報」で生計を立てている人である。だから、「情報弱者」は救済されなければならないと言うが、本当にそうなんだろうか。
「情報強者」のはずの人が、レストランで小首をかしげながら食べている。写真を撮っては、「答え合わせ」をネットに書き込む。彼らを救済してあげた方がいいのではないかと、老婆心ながらおもってしまう。
そういえば、先週は同年代の広告関係者と会うことが他にもあった。
彼は、ほぼ同年代で、会社は違うのだけれど、社外活動でいろいろと一緒だった。お互い「自社代表」みたいな感じで、シンポジウムとかでパネラーを務めたりしていた。広告業界でも、リサーチャーどうしは仲がいい。営業どうしは、そうも行かないこともあるのだろうけど。
いろいろ話していて、「ワークショップ」の話になった。僕は、安易にワークショップを提案しない方がいい、という考え方なのだ。それは、彼とも一致した。
「特に若手をワークショップのファシリテーターにするのはよくないよ」と僕。
「だよね~まず企画ができてから、ワークショップ運営するならいいけど」
「あれで、仕事した気になるんだよな」
「そうそう」
「ワークショップなんて”鍋料理”なんだよ。まず、ちゃんと料理の修業してから”鍋もあります”ならいいけど。初めから”鍋専門店”じゃ腕は上がらないでしょ」
「でもね~山本さん。その”鍋料理”が食べたい、っていうお得意先も多いのよ」
「へ~。何かできた気になるからでしょ」
「あと、社内調整。つまり、こういうご時勢だからみんな責任取りたがらないでしょ。特に広告とか”説明責任”が大変じゃない」
「たしかに、そうだよね~。どの会社でも広告予算の責任者って大逆風でしょ」
「でしょ~。だから、代理店としては彼らを助けるのが最大のミッションだから」
「だったら、みんなで”鍋料理”か~」
「もう、味付けなんてあったものでなし」
「そっか~、”みんなで作って食べました”が大切なんだ」
というわけで、じゃあホントに広告代理店の付加価値って何よ?と言うことになるわけで。
まあ、僕もワークショップをすることもあるけれど、その場合はかなりの「下ごしらえ」をする。味付けの方向もかなり固めておく。
ワークショップがよくない、というのではなく「お互いをマッサージしましょう」みたいな妙なミーティングが多いのが気にかかる。
そういう話であった。