まずは、広告業界の昔話をしてみたい。
かつて、マス広告が全盛でクリエイターがアーティストのように振る舞っていたい頃、広告は「読解され、解釈される」ものだった。というか、一部の業界人がいろいろ後付けの理屈を言って、便乗した学者がコメントして小遣い稼ぎをしていた。
その時の、武器が「記号論」というものだった。別に広告の仕事をしていなくても、1980年に大学生活を送った人で、ちょっとアカデミックなことをかじってみたなら何らかの影響を受けていたと思う。
だから、広告の分析も色々と大変だったりした。
画面にワイングラスが映る。どうやら屋外のようだ。すると、これは「開放感」の象徴であると「読み解く」のだ。日中のようだから、これは昼から飲む「背徳感」かもしれない。しかも晴れていなくて「曇り空」だ。
2つのグラスが映り、どうやら男女のカップルだが、男の指だけに指環が見える。そして、ますます「背徳感」が強調されている。そして、足元には猫の姿。一方で、遠くから芝生の上を犬が走っている。
ネコは思うがままに生きる自由の象徴だが、一方でイヌは正当性の象徴で、ワインの品質は保証される。つまり優れた品質であるが、そのスタイルは顧客に委ねられていて、まさにポストモダンの生活を描いている。
なんてことを大真面目にやっていたんだけど、実は単にロケの日の天気が悪くて、モデルが指環を外し忘れていただけだったりする。しかも、宣伝部の担当が猫好きだったけど、直前に部長が犬を飼っていることが判明して慌ててカットに加えていたりしても、一生懸命「読み解き」をしていたのだ。 >> メディアや広告の仕事してるなら、『新記号論』は気になると思うよ。の続きを読む
そういえば、ちょっと前に「デザイン思考」が話題になった頃、広告代理店の社員の一部には「何を今さら」という感じがあって、そういう名前ではないけれど、フツーにそういう思考をしていたという感覚はたしかにわかる。
ただし広告づくりの範疇を超えて、その思考でビジネスのアップデートできたのか?というと少々「ビミョー」な感じもした。
が、その話はさておいて、そうした思考法の「次の段階」を上手にまとめたなあと思ったのが『直感と論理をつなぐ思考法』だ。この本では、「デザイン思考の平原」にはクリエータなどの“先住民”がいるという表現で、「ビジョン思考」へと先導を試みている。
で、この本の批評をするのが目的ではないんだけど、おもしろいなと思ったことが「妄想」を思考の起点にしていることだった。創造じゃなくて、妄想。
でも、その妄想が許されない企業が本当に多い。これだけ日本の伝統的企業の問題点が指摘されていても、その根本は変わっていない。数多くの改革者と言われる経営者も登場して、もちろん変革は進んでいるけれど、「やっぱダメだったか」ということも、最近になってまた実感してたりする。
そもそもこうして迂闊に「やっぽり」を連発してしまう時点で、どこか自分まで後ろ向きになってしまうことに気づくのだ。
じゃあ、どうすればいいのか?トップの強力なリーダーシップはたしかにプラスに働く。別に妄想という言葉を使わなくても、自由な思考を促す経営者はたくさんいて、ところがそこには思わぬ障壁がある。 >> 健全な妄想を許さない日本企業の「スペシャリスト」について。の続きを読む
テレビの視聴時間が「年代に比例して上がる」のはもう常識で、若い世代が見ないのは「ネットがあり、スマホがあるから」というのも当たり前の話になっている。
で、改めて考えてみようと思って青山学院大学の講義で、学生に聞いてみた。
少人数の講座なので、4~5名で6つのグループに分かれて「なぜ自分たちはテレビを見ないのか」というテーマで議論してもらった。
「いくつか理由を列挙した上で、最大の理由をグループで1つ選ぶ」という指示にした。「もっとも大きな理由」が気になったのだ。
「いや、私は見ます」という人もいないので、議論はスムーズだったんだけど、結果は意外だった。
6グループのうち、5グループが「家にいないから」を最大の理由に挙げたのだ。あと1グループは「コンテンツがつまらないから」だ。僕は「コンテンツ」が最大の理由だと何となく思い込んでいたのである。
サンプルは少ないかもしれないけど、この結果は結構本質を捉えているようにも思う。というのも、「複数理由を挙げて議論している」からだ。そして、どのグループも「家にいない」vs.「コンテンツがつまらない」決勝戦になり、「やっぱそもそも家にいないからね~」となるのだ。
ちなみに、スマートフォンなどでテレビを見るアプリを入れたりとか、そういう意欲はないようだ。そこまで見たい感じでもない。
で、「テレビの危機」というのはよく言われるけど、実は3つくらいの側面があることに気づく。 >> 学生がテレビを見ない最大の理由は「つまらないから」ではなく…。の続きを読む
紙の新聞をやめて、電子版のみになって相当経つ。紙面よりオリジナルの記事や情報がある上に、検索・保存もどんどん使いやすいので、紙の理由がない。ひとつ困ったのは猫のトイレ掃除だけど、幸い集合住宅なので譲ってもらいどうにかなった。その頃調べて驚いたのは、「新聞紙」をアマゾンで売っていることだ。
このレビューが傑作で、「製品の価値は使用者が決する」というマーケティングの小噺に最高かもしれない。猫や犬はもちろん、使い道はいろいろあるのだ。最近だと、印刷前の白紙のものも売っている。
というわけで、掃除の時などに紙の新聞を見ていて感じるのだけれど、なんかものすごく情報密度が薄い。何でかな、と思うと本文の文字は大きく、見出しはさらに大きい。ただ、その分中身は薄い。
大きな事件のあとにコンビニなどで新聞をちらりと見ると、「こんな派手な見出しになっているのか」と驚く。一般紙の見出しはドンドン大げさになっている。
そして、紙を見ないものにとって、この見出しがなんだか馴染めない。だって、事実を伝えるのにあんなでかい文字は必要なのか?
そして、普段紙の新聞を見ないと、あの見出しが暴力的に感じられるんじゃないだろうか。自分の実感でも、コンビニの新聞棚がなんか不気味に見えてくるのだ。オリンピックや米朝会談の翌日など、「ウワ、なにが起きたんだ」という感じで、むしろ引いてしまう。
ちょっと妙な仮定になるけど、もしテレビが「大ニュースの時は大声になる」としたらどうだろうか?それは、変だと思うだろう。まさに暴力的だ。速報を出したり、L字にしたり、あるいは通常番組やCMを飛ばしたり、「大ニュース」の伝え方はいろいろだ。
ただ、紙の新聞は「文字と写真を大きくする」ことで表現している。
ニュースをインターネット、特にスマートフォンで見ている若い世代の人は、このような「大きな文字で重要性を表す」ということにそもそも馴染みがない。というか、僕のように、かつて紙の新聞を読んでいたものでさえ違和感があるのだから、全世代で見てもそうなっていくんじゃないか。
で、普段読まない者が紙の新聞を読むと、あの見出しなどは編集が勝手に騒いでいるように見えてくる。
「ほら、これを食え!」と言われてる感じで、そういうのを喜ぶ人はいないんじゃないか。
新聞の部数が減るのと反比例するように、紙の見出しは巨大化する。それって、客の減った店が大声で呼び込みしているようなもので、客は引くのが当たり前だ。
「取材/報道」という機能と組織はこれからも必要だと思うが、提供の手段としての紙の新聞は、そういった「表現形態」としても復権はしないだろう。
なんか、ふと寿司屋を連想した。ネットのニュースはいかにも回転寿司的だ。ただ、回転寿司が増えても、高級店はまたしっかりと存在するように「質の高いニュース」にカネを払う人はいるはずだ。
でも、あの「でかい見出し」では、それも難しいだろう。新聞の未来は、そうした当たり前を見直すことから始まるんじゃないだろうか。
この連休の始まった頃、長野県では民泊についての報道が注目されていた。全国ニュースでは、かのメンバーの帰趨でそれどころじゃないのかもしれないけれど、この話は日本全国のすべての地域に影響してくる話だと思う。
民泊の全面規制を求めていた軽井沢町に大して、長野県は一定の条件ながら要求を認めたのだ。簡単に言うと
◆ すべてのエリアが行楽期間(5月および7~9月)は全町で規制
◆ 他の期間でも9割がたのエリアでは月曜から金曜まで規制
当初要求していた「全面規制」ではないものの、軽井沢としては受け入れるようだけど、それはそうだろう。実質的には「行楽期の4カ月以外の土日」しか、民泊は困難とになるからだ。
さて、この軽井沢町の方針は妙手なのか、悪手なのか?
町の成り立ちや現況を考えると、現時点で全面解禁はたしかに難しいかもしれない。ただし、将来にわたって規制を続けるとかえって衰退につながると思っている。段階的にオープンにしていくビジョンが軽井沢には必要ではないか。
最大の問題は、来訪者の高齢化だ。ピーク時のアウトレットなどを見れば、幅広い客層がいるように見えるかもしれないが、全体として高齢化していてることは町の人が一番感じているだろう。
地元の人と話すと、立派な別荘がジワジワと空き家化していることを心配している人も多い。ここ最近の観光客の増加は、訪日外国人の影響が大きいが、若い日本人にとって「軽井沢」は、もはやそれほど引力のある観光地ではないと思う。 >> 軽井沢の民泊規制は、妙手か悪手か?の続きを読む