新しい潮流が生まれようとする「○○元年」という言葉が飛び交うが、この「元年」は結構曲者で少なくても一般的な暦の「1年間」を意味するとは限らないことはもう誰もが知っているかもしれない。
まあ、電子書籍についてはkindleのサービス開始が元年だったと思うが、ネットの「動画」については今年が元年となる可能性が高いように思う。
個人的には、視聴覚が1つの情報元に縛られるのは嫌いなので、ネットで見るのは30秒以内、長くて1分の猫動画くらいだ。自宅のテレビで映画などを見ることも少ない。
で、最近思ったんだけど、聴覚と視覚が分離しながら情報を認識している機会が増えているような気がするのだ。
家の外ではipd miniを使っているが音声は消していて、イヤホンやヘッドホンは結構前からなぜか耳が受け付けないので使っていない。すべて無音だ。車内広告の動画も無音なので、殆ど視覚情報だけになる。
スマートフォンを使っている人をみても、イヤホンを常時付けている人ばかりではない、というかつけてない人の方が多いように感じる。この調査によれば「持ち歩いてる」人と、そうでない人が半々だ。しかも10代では7割以上だが、20代から急減する。 >> スマホ動画で「目と耳とデカップリング」が進む。の続きを読む
まず、今回の地震でいろいろと心配している人も多いと思います。講義などは予定通りにおこないますが、週末にメディアに接している間に落ち着かない気持ちになった人も多いでしょう。
皆さんは東京近辺で暮らしているわけですが、遠くの地で起こっていることをテレビなどで見るだけでも、心に対する影響はあります。そうした中で、「応援しよう!」と動き出す人もいれば、どうしていいかわからない人もいるでしょう。
でも、こういう時の反応は人によって違うのが当然です。「なにもできない」といって、ことさらに落ち込むことはありません。
青山学院でも応援募金を始めています。無理のない範囲で、参加するのもいいでしょう。
さて、こうした時に学生として大切なことがあります。それは、自分の学んでいることを活かせないか?と考えることです。
この講義はマーケティングやメディアを論じますが、それぞれにおいて、災害で貢献できることもあるのです。「どうすれば、もっとスムーズに助けられるのか?」という姿勢で学ぶことで、将来社会に役立つことができると思いませんか? >> 【講義覚書】災害の時、学生がするべきことは。の続きを読む
東京大学の入学式の総長式辞で「新聞を読もう」と言ったというニュースを見て、ウェブサイトに掲載された式辞を見た。なんか唐突な感じもしたのだが、読んでみると必ずしもそういうわけでもないように感じた。以下””内は引用。
- まず、この式辞では「新聞を読もう」とは言ってない。“ところで、皆さんは毎日、新聞を読みますか? 新聞よりもインターネットやテレビでニュースに触れることが多いのではないでしょうか。”と問いかけている
- そして、“ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべきです。”と言い、“東京大学ではオンラインで新聞記事や学術情報を検索し閲覧できるサービスを学生の皆さんに提供しています。”と続ける。
- 新聞を読もう、というよりもニュースの表面をなぞるのではなく、その背景などについてきちんと読み込むということだろう。ネットでも記事が配信されているが、その内容をちゃんと読んでいない人は社会人でも多い。
- 僕もネットニュース、特にアプリの問題は学生に指摘している。自分の関心が高いもの配信されるような設定だと「情報偏食」が起きる。このことについては、昨年あたりから学生も理解して、特に就活前くらいから気にするようになってきた。
- ただし新聞はカネがかかる。殊に学生への仕送りが減少を続ける中では、相当大変だし、以前から一人暮らしの学生は新聞をとっている人は少なかった。図書館など大学の施設を利用することを薦める先生は多いし、総長もその辺を意識しているのかもしれない。
- そして、この式辞はさらにこう続く。“皆さんにさらにおすすめしたいことがあります。それは、海外メディアの報道にも目を通すことです。日本のメディアの報道との違いに注目してみてください。”
- こうなると、日本で新聞を読む価値はなんなんだろうか?という話になる。紙の新聞をとるよりも、大学のオンラインを最大活用することを薦めているような感じだ。だったら「新聞だけでは何もわからない」と言った方がいいようにも思う。
- ちなみに、今朝のNHK・BS-1の世界のニュースでは、中国農村の「留守児童」の実態をレポートしていたが、これが英国BBCからの配信。隣国のルポがロンドン経由でニュースになって見ることができる。
- 一方で日本で報じられる中国人の話は「爆買い」についてのトピックが目立ち、あるいは南沙諸島における軍備関連の話が多い。あるいは経済動向など。たしかに日本のメディアだけを見ていれば、それが新聞でも十分に危うい。
- 大学でも、学生の情報接触についての危機感が強まっていることは近年の学長式辞でも感じられる。信州大学の山沢清人氏は昨年の入学式で「スマホ漬け」に警告したし、東大教養学部の卒業式の石井洋二郎氏の式辞も「情報の真偽」について語った傑作だったと思う。
- それに比べると、入学式と卒業式の対象者の違いはあるとはいえ、この東大入学式の式辞は、キレがないし「新聞読もう」と報じられても仕方ないのかなと。京大入学式の式辞も迫力があったし、こうしてネットで全文掲載になると学長の人となりが見えてくる気もする。
今年は、年明けから国内のスキャンダル報道が多い。というか、元を辿ると週刊文春が爆走しているということなのかもしれないが。
まあ、第一報のニュースが見るけれど、その先の報道、というか情報番組などは見ない。逮捕で騒ぐのはわかるが、保釈でヘリを飛ばしたり病院に張り付くのは何なんだ。あと、「謝罪」をわざわざ見たりするのも避けている。
なんか、ゴルゴダの丘の群衆に加わるような感覚になるのだ。処刑される人が誰であろうが、構造は似ている。そして、3日後とは言わないが復活する人もいるわけで。あ、そういえば次の日曜はイースターか。
それでも、メディアはしつこく追っていく。特にテレビはあちこちでやるので、それを避けると見る番組がなくなるような時間帯もあって、スイッチを切ることになる。
でも、それは需要があるからなのだろう。みんなが見なくなれば、テレビも変わるかもしれない。
で、その需要っていうのは「溜飲を下げたい」人が生み出していると思う。
「なんだよ、結局不倫じゃ、CMゼロでもしょうがねえだろ」
「事務所独立するって、難しいに決まってんだろ、何年芸能界いるんだよ」
「あんだけ詐称して、よく偉そうなこと言ってたよな」
ちなみに「溜飲」というのは、「不消化のため飲食物が胃にたまって出てくるすっぱい液」ということだ。それが下がるというわけなのだから、「なんかムカムカして不快な状況にある人」が、「溜飲を下げる」番組のターゲットということになる。 >> 「溜飲を下げたい人」とメディアのダメな関係。の続きを読む
先日学生たちと就活のことで話す機会があって、いろいろと質問を受けた。ところが、妙な都市伝説のようなものが結構多い。
「メーカーではスーツの色は黒がいいと聞いてますが」
「銀行員の前で、“公務員受験を考えていた”と言ってはいけないんですよね」
みたいな話だ。銀行員は公務員を嫌っている、という話だが、出所はよくわからない。この手の噂は年々増えている。スーツの色についても不明。
この手の「真実の話」ほど、真実から遠かったりする。大学生が世間を知らないから、というのではない。齢をとっても、妙なものに嵌る人はたくさんいる。
スーツの色で思い出したけれど、新入社員へのアドバイスの記事で「米国大統領」を持ち出していたものがあった。結論として紺かグレーを選ぶべき!という一般的な話なんだけど、そもそも新入社員が大統領の服をまねる必要性がどこにあるのかいな。
それより自分の似合うものを選べばいいと思うんだけど、それじゃ記事にならない。つまり、フツーのことをフツーに伝えても目立たないのでそういう話になるんだろう。
その手の記事づくりが増えるから、ネット上には「○○すべき」話が溢れて、一定の人がそれに煽られるから、真実もどきが増殖する。
そういうわけで、学生や若い人へのアドバイスは単純になる。「真実は」と謳っているものは、とりあえず疑っておけということだ。「真実を探す」とか言う記事を読むと、そもそもの事実誤認だったり曲解だったりする。
「メディアは真実を伝えない」というのは、たしかにそうかもしれない。ただし、その思い込みが強い人は一定数いる。池の魚に餌を撒けばワラワラと寄ってくるように、「マスコミが伝えない」というだけで、寄ってくる人がいるのだから、彼らが満足する情報を書けばそれで成り立つのだ。 >> 学生も大人も感染する「真実もどき」の続きを読む