日本画家の菱田春草の展覧会が間もなく東京国立美術館でおこなわれる。
それはいいのだが、ここでもまた既視感のあるPRを見ることになった。
猫だ。
春草の代表作に「黒き猫」他、たくさんの猫作品があるのはいいんだけど、今回の展覧会は猫のシルエットがアイコンになるほど「猫シフト」になっている。ちょうど一年前に行われた竹内栖鳳の展覧会もポスターなどには猫を使っていた。
猫好きは狙われている。可愛い猫の絵があれば、とにかく出かけてしまう。そして展示替えという、困ったこともあり、今回は白猫が去ってから黒猫が来たりするのだ。
今年、山種美術館でおこなわれた「kawaii日本美術」も猫好き狙い撃ちだった。
この10年くらいの日本美術の展覧会は、たしかに人が集まる。2005年に東博で開催された「北斎展」は連日盛況だったし、相前後して若冲も相当話題になった。
そして、日本美術における動物は魅力的だ。独特の愛らしさは、西洋美術にはない視点を感じる。そして、猫はその先兵なのだ。 >> 猫は日本美術の最高の広報官だと思う。の続きを読む
スマホを持ってない。そもそも携帯を使うようになったのが、会社を辞めた10年前なので、まあ、結構そういうものには天邪鬼なのかもしれない。
正確に言うと、2011年から2年ほど携帯電話と「二台持ち」だったのだが、スマホをやめてタブレットにした。iPad mini。実は、これが生まれて初めて買ったアップルの製品だった。
ちなみに、携帯電話は2009年に買った、SA001。SANYOのロゴが何ともいい味を出している。
スマホをやめた理由は単純で、「便利すぎる」ということだった。掌の中で、いろんなことができる。僕の場合、殆どが「読む」なのだけど、それがあまりにも簡単にできる。ちょっと、時間があるとすぐに見る。電車に乗った時とか、何となく出して何となく見る。
ニュースも読んでいたのだけれど、しばらくすると内容をすぐに忘れるようになった。ちょっとした数字とか、それなりに覚えているつもりが、忘れる。まあ歳なのかと思ったけど、スマホで読んでいたモノがどうも忘れやすいと気づいた。
読んでるものに関心がないと、どんどんスクロールが加速するので、読んだつもりでちゃんと読んでない。これはスマホをやめたら、大丈夫になった。
そのうち、街でスマホを持っている人を見ると「人間リモコン」に見えてきた。実はスマホを使っているようで、スマホが人間を動かしているような気がした。実際に地図を見ている時なんかはそれに近い。 >> スマホをやめたワケ。の続きを読む
タブレットを3つ持っている。一昨年の暮れに初期型のNEXUS7を買って、これはwi-fiで自宅使用。妻が主に使う。
同じ頃に、kindleのpaper white を入手して、これは僕が持ち歩いている。
で、先月にipad mini を購入して、これは僕が使っている。
こう書くと、「タブレット・マニア」のように思われそうだが、実際には使用用途がかなり限定されている。webを見て、外ではメールをやり取りするが、基本は「読むため」の道具だ。動画は見ないし、音楽はスピーカーでしか聴かないので、何だかもったいない気もするが、それでも十分に重宝している。スマートフォンをやめたので、必要なデバイスなのだ。
NEXUSは「試し」くらいのつもりで買ったけど、これで紙の新聞はやめることになった。そしてスマホをやめて「ガラケー+タブレット」にする時に、電波の問題でauを選ぶことにした。都内はともかく、よく行く地方のエリアではau以外LTEの波が来ないのだ。
それがipad mini を買った理由であって、電波さえクリアできればNEXUSでもよかったのだ
3つ比べて、いろいろ感じたのだが、この7インチ近辺のタブレットで、自分にとって一番大切なのは「大きさ」だと感じた。
というか、個人的にはNEXUSの方がいい。auの波が使えれば、そっちにしたいくらいだ。
理由は簡単で、「幅の差」なのだ。
kindleを使い始めて一年あまりが経った。どうなったかというと、とりあえず小説については「kindle化されているものから読む」ようになっている。
なぜ、電子書籍にしたいのかというと最大の理由は置き場所だ。数千冊の本が自宅にあって、さらにそれ以上の本を置くため、近所にトランクルームを借りている。本を保管するためにこれ以上コストをかけたくはないのだ。
kindleのpaper whiteを購入したのは一昨年の12月で、その直後に休暇で海外に行った。プールサイドに持っていったら、両側の西洋人が二人ともkindleを持っていたことが印象的だ。
で、本を読む上で紙と比べて何ら困らないかというとそうではない。「小説については」と書いたけれど、ある程度難しい専門書や学術書だと、やっぱり紙がいいように感じる。
僕の感覚でいうと、電子書籍の最大の欠点は、「ページをガバッとめくれないこと」なのだ。
あと付箋やアンダーラインに該当する機能もあるが、これだって紙の方が遥かに使いやすい。本を書くときなどの、参照・引用する場合のことを考えると、やはり紙というのは相当によくできているなあと思った。紙の本がなくなるというのも早計だと感じる。
ここに書くのは年明け初めてだが、いきなり私事から。
さる11日に50歳になった。だからどうした、と言われればそれまでだが、十進法の魔力というのはたしかにあって、しかも50となるといろいろ考える。
昨秋に、ふと家の「やかん」が気になった。まだ使えるのだけれど、さすがにそろそろかな、という感じにもなったのだ。思い出すと、これを買ったのは社会人になってしばらくして一人暮らしをした時。つまり四半世紀を数えたことになる。
ということは、と考えてちょっと愕然とした。やかんで、「愕然」とは大げさかもしれないけれど、次に買うやかんを同じくらい使うと、自分は75歳。
もしかすると、次に買うやかんは「人生最後のやかん」になるやもしれない。
このことである。
いや、池波正太郎を再読してるので文が変になった。まあ、やかんの耐用年数もさまざまだろうけど、今後は買い物ひとつとっても「人生最後」になる可能性がジンワリと現実になったわけだ。
そんなことを昨秋に気づいてから、50歳というのは、単なる10進法の区切りでもない気がしていた。一つには人間の世代が3周目に入るということもある。信長ではないが「人生五十年」が普通だった時代は、子どもが一人前になって次の世代が生まれるのが大体50歳くらい。
つまり、ここを超えれば爺さん・婆さんになるのだから、昔の感覚なら50以降はほぼ「余生」といっても大袈裟ではないのだろう。
>> 五十歳。残り物か、贈り物かの続きを読む