このタイトルを目にした時、どんな感想を抱くだろうか?悲しみや笑い、あるいは怒りなどの情動は、外からの刺激に対して内から沸き起こり、それはまた、「ある程度」共有できるものと考えるのではないだろうか。
芝居や映画を見て、同じようなところで笑い、あるいは涙する。それは海外の作品だったり、数百年前の脚本であったりもする。そういう時に、ついつい人間の情動は時代や国境を越えた普遍性を持っていると思うこともあるだろう。
ところが、注意深く見れば笑いの沸点が低い人もいれば、いつまでもムスッとしている人もいる。悲しい場面でも、全員が泣くわけではない。
いろいろと思い出していけば、そうした情動は実体験や、触れて来た文化などの文脈によって決まっているのではないか?と感じることもある。
本書は、「古典的情動理論」に真っ向から異を唱える。この古典的情動理論は「怖れ・怒り・悲しみなど人間の情動は普遍的である」という考え方だ。その根拠になった実験は、いろいろな表情の顔写真を見せて、その顔写真にもっともふさわしい言葉を単語の選択肢やストーリーと合致させるというものだ。
そこでは、研究発祥の欧米のみではなく世界のさまざまなエリアで実証されたという。
しかし、本当にそうなのか?実は何十年も権威をもってきたこのエクマンの実験については、昨年「日本人には合致しない」という研究結果も発表されている。
そして、そもそもこの古典的情動理論のフレーム自体に異を唱えて、「構成主義的情動理論」を唱えるのが筆者の立場だ。
情動はもともと人に備わっているものではなく、その文化の中で育まれていく。たとえば日本語の「ありがた迷惑」や、ドイツ語の「シャーマンフロイデ」に当たる言葉は英語にはなく、似たような例は世界中にある。
にもかかわらず、感情をいくつかに分類して、それが人間の本質であるという発想を強く批判する。
そして、スポーツ選手が勝利の時に見せる激しい表情も、そこだけを切り取れば「怒り」にも見える。つまり、情動と表情も単純な「刺激/反応」の関係にあるのではない。
僕はこうした発想を「そうだよな」と受け入れられたが、それは自分が日本で生まれ育ち、かつ西洋文化を受容しながらも、どこか違和感を覚える時があったからかもしれない。仕事においても、欧米企業のいう「グローバルなコンセプト」が、「本当に普遍的なのか?」と議論したことは何度もあった。そして、そうした一貫性重視の戦略は成功することも、失敗するケースも見て来た。
もちろん、文学やアートでも同じような感覚になったことは山ほどある。
一方で、近年は広告などのクリエイティブ開発でも表情解析が進んでいる。ただし、その依拠するところがエクマンなどの古典的情動理論だとすると、大幅な見直しが求められるだろう。
またマーケティング、特にブランディングにおける「普遍的価値」というもの自体が、その正当性を問われるかもしれない。そういう意味で、この本はマーケティングやコミュニケーションの仕事をしている人にとっても、大変重要だと思う。
なお、本書の翻訳はとても丁寧で、とくに専門用語については巻末の訳者あとがきで、その意図とともにていねいに解説されている。ここは先に読んでおくことをお薦めしたい。
もちろん筆者の立場に異を唱える人も多いだろうし、このテーマはそうそうに決着がつくわけでもないだろうが、心身の健康問題や、法と社会の問題にまで議論は広がっている。
何らかのかたちで「人の情動」に関心を持つならば、これからもその動向を追うべきテーマだろう。
※Amazonで妙な低評価があるけど、これはkindleでダウンロードできないことが理由のようだ。この本については注釈も多く、紙の方がおすすめだけど。