「メルセデスと呼んでほしい」が、大変そうだなあと思う理由。
(2019年7月8日)

カテゴリ:マーケティング

特に大きなニュースもない日曜の午後に、こんなニュースの見出しがあってついつい読んでみた。

「メルセデス」と呼んで、のワケ 音声認識もしない「ベンツ」呼称は変わるのか?

ああ、まだこのことでいろいろと悩んでいたのか、と思った。

「まだ」というのは訳があって、これは販売者にとっては昔からの問題だからだ。

そして、昔々、元号が昭和といっていた頃ベンツは「ベンツ」だった。そこには、ちょっとした羨望とそれなりの畏怖、さらには畏怖どころか若干の恐怖要素もあり、それでも「最善か無か」と、クルマの頂点に立っていた。

その頃はヤナセという商社が一手に扱っていたのだが、ちょうど平成という時代になる頃に本社が直接日本市場の攻略に乗り出し、新たなマーケティング施策をおこなう。

そして、「メルセデスの嘘」というキャッチコピーでキャンペーンを行ったりした。

いま、こんなフレーズで広告をやったら「排ガス不正かよ」とツッコまれそうだけど、これは「メルセデス・ベンツに対する先入観を取っ払ってほしい、という思いで書かれた。

つまり、企業が嘘をついているのではなく、世間の情報は真実ですか?という話なんだけど、このタグラインはもちろん「ベンツ」ではなく「メルセデス」だ。

というわけで、「メルセデスと呼んで欲しい」というのは、平成時代の悲願だったと思うのだけど、この記事は読むとまだまだ浸透していないのかもしれない。

もっとも、自動車雑誌などではそうした意向を先取りしたか忖度したのか、「メルセデス」と書き、一部の評論家は「メルツェデス」とかわざわざおっしゃられるという微笑ましい時代もあったが、気がついてみると、世間ではまだまだベンツなんだなあ、と先の記事を読んでしみじみ思った。

でも、メルセデスと呼んでもらえるんだろうか?というとちょっと難しいかもしれないと思う。

それは、「5文字より3文字の方が言いやすい」とかいう話ではない。まあ「竹野内・豊」とや「道明寺・司」がどう呼ばれたがっているのかは知らないけど、そもそも「呼ばれたいように呼んでもらえない」というのは、フツーに世の中ではある話だ。

「中学校時代のあだ名」とか、そんな感じじゃないだろうか。つまり「自分が呼ばれたいように呼んでもらう」のは難しい。

ところが、ブランド名というのは「呼んで欲しいように呼んでもらう」ことが結構できた。マスメディアを駆使して、ガンガンと広告などをすれば、人々は「そう呼ばざるを得ない」わけで、でもそれはとても例外的だったのだと思う。

それに、メルセデス・ベンツのように長いこと頑張っても意図通りにいかないこともあるし、これからはますます難しくなるだろう。

誰もがメディアの発信元になれるのだから、ブランドにまつわるシンボルも受け手の中で知らず知らずのうちに変形していく。ちょっと前に、とあるパーキングで自分のクルマを「ベンツ君」と呼んでいる人を見たけど、アニメやゲームのキャラクターのように、ブランドだって「二次創作」されていく。

そうやって企業のメッセージをどのように「誤読」するのも自由だし、気がついたら誤読が主流になることだってあるだろう。

そういう時代に「こうやって呼んでくださいね」と赤ペン先生のようなことをしても、それがブランドメンテナンスになるのか?

つまり、この話はメルセデス・ベンツだけではなく、すべてのブランドが誤読され、それを誤読と言いきれない時代のブランディングの難しさを象徴していると思うのである。