4月になると、入社式や入学式にまつわるニュースが報じられて、結構SNSなどでも話題になったりする。
今年は「あれ、見たことあるな」と思ったのがあって、それは「1986年と現在の入社式」という記事だ。これ、実は2010年の記事で一度話題になったのが、そのまま再度注目されたようだけど、ネタとしては結構前だ。また朝日新聞デジタルでも、入学式の黒スーツが取り上げらていた。
記事にも引用されていたけど、国際基督教大学の加藤恵津子・学生部長は同紙に「服装の統制は、言論や思想の統制と隣り合わせ。」と寄稿していたので、その流れなのだろう。
最近の服装を個性がなく画一的で無個性と捉えるのが、大人の流儀なのか発想なのか。でも、僕はその発想の方が画一的なんじゃないかと疑ってみたりする。
大学はもちろん、いまは職場でもカジュアルな服装が増えている。彼らにとって、入社式や入学式は、「とりあえずおさえておく」儀式だし、だったらそのまま就活で使うスーツを選ぶのも普通だろう。
先の学生部長は「服装の統制」というけど、その発想もまた見えない何かに統制されている気もする。
ただ、実際に日常の服装がどうなのかというと、たしかに「個性的」ではないかもしれない。
ある店で男子6人のグループがなぜか全員グレーか紺のパーカー着てたり、学生がわざわざじゃないのにニューバランスのスニーカーばかりだったりとか。
なんか「服装で何かを主張する」という発想自体が、もう過去のものなのかなという感覚だ。
そもそもファッションはマーケティング史において無形の付加価値によって、巨大化したケースとして必ず取り上げられる。
つまり、稀少性によって満足を得る心理を巧みに突くことで、多くのブランドは成立した。それは20世紀に世界中で拡大していったのだけど、そろそろ賞味期限が切れても全くおかしくないモデルかもしれない。
そう考えると、服を自己表現の手段とすることに疑問をもつ若い人が増えていることが「おかしい」とは思えなくなるのだ。もちろん、他の方法で表現する人もいれば、ファッション自体が好きな人がいて、そういう意味では別に画一的じゃないと感じてる。
それにしても、気になるのは「個性的」という言葉だ。ある頃から「個性的」ということが大切にされているようだけど、どうもこの言葉の意味がわからない。誰だって個性はあるんだから、個性的なはずで、実際英語にしてみるとおさまりが悪い。
本当に大切なことは「独創的」、つまりoriginalだと思うのだ。
そう考えると、「個性的」というのは「仲間内で目立つ」という程度のことで、それを大切にしても、大したことは生まれないんじゃないか。
「個性的であらねば」という謎の思い込みをしている大人が、若い人の服装を嘆くのはいいけれど、そういう人が独創的なのかな。ああ、これはちょっと意地悪な質問かもしれないけど、そんなことを言ってみたくなる平成最後の4月なのだった。
あ、最後に画一的な表現をしてしまったじゃないか。