世界水準の学園祭!【クルレンツィス&ムジカエテルナ】
(2019年2月14日)

カテゴリ:見聞きした

テオドール・クルレンツィス&ムジカエテルナ

テオドール・クルレンツィス[指揮]パトリツィア・コパチンスカヤ[ヴァイオリン]ムジカエテルナ[管弦楽]

2019年2月11日 15時 すみだトリフォニーホール

チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 (アンコール)ミヨー:ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲 作品157b 第2曲/リゲティ:バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)よりアンダンテ/ホルヘ・サンチェス・チョン:”クリン”1996−コパチンスカヤに捧げる

チャイコフスキー/交響曲第4番 ヘ短調 作品36

(アンコール)チャイコフスキー:幻想序曲《ロメオとジュリエット》

 

というわけで、曲目だけでこんな長くなってしまったけれど、単純に「感動した」とかいうレベルを超えて、オーケストラを聴く幸せをこれほど味わった経験はそうそうない。そして、彼らの音楽を「革命的」と評して、「クラシックはつまらない」ということばだけをつまみとって論じるのもちょっと違うのかなと思う。

この日のチャイコフスキーの4番は演奏的には正統的で、正面からぶつかってキッチリと仕上げている。「ムジカエテルナ○(寄り切り)●チャイ4」という感じの演奏で、けたぐりも張り手もない。いや、両国が近いからといってこういう喩えもどうかと思うがそういう演奏だ。

そして、彼らが体現しているのは「オーケストラで奏でることの幸せ」なんだろう。よく「指揮者がいないオーケストラ」を理想的な組織に喩えることもあるが、別に指揮者がいて邪魔になるわけではない。ただ、指揮者を「シェフ」などと呼んで万能の王のように崇めればいいとも思わない。

実は、そうすることがレコード会社やマネジメント企業の「商いに都合がよかったんじゃないか?」ということは今世紀に入る頃にバレてしまっている。そんな中で世界のクラシック業界が右往左往する中で、出てきたのが彼らのコンビなのだろう。

ある意味これは、「世界水準の学園祭」みたいなものだと思う。プロのオーケストラが「今を生きる喜び」をここまで表現して、観客とともに一期一会の時を過ごす。立って演奏するので、最後の一音が鳴り響いた時に弦楽器の弓が「どうだ!」とばかり天を突き、何かに憑かれたように熱狂の渦が巻き起こる。

前半のヴァイオリン協奏曲は、それこそ「普段は聴けないような演奏」ではあったけど、これはソリストのスタイルが大きく影響している。チャイコフスキーでは珍しいけれど、バロック時代の協奏曲ではこういうのはあると思う。

ただ、コパチンスカヤの音程が第一楽章からどうも怪しくて、気になって仕方なかった。曲が曲だから難度の高い所でズレるのはよくあるけど、単純なスケールが不安定なところもあり、気になっているうちに演奏が終わってしまった。

その辺りの感覚は、オーケストラにも少々あったんだけれど、僕の不安は別のところにある。というのも、指揮者=オーケストラ=観客の「この幸せな関係」はもしかしたら、もう二度と再現されないのではないか。できたとしても、意外と近い未来にその関係は変質するのかも?ということだ。

「幸せ過ぎるのが怖い」という昔ながらのフレーズが、ふと思い出されたりする。

でも、それでもいいのかもしれない。それが、コンサートの素晴らしさなのだとすれば。