2018年10月アーカイブ

テレビの視聴時間が「年代に比例して上がる」のはもう常識で、若い世代が見ないのは「ネットがあり、スマホがあるから」というのも当たり前の話になっている。

で、改めて考えてみようと思って青山学院大学の講義で、学生に聞いてみた。

少人数の講座なので、4~5名で6つのグループに分かれて「なぜ自分たちはテレビを見ないのか」というテーマで議論してもらった。

「いくつか理由を列挙した上で、最大の理由をグループで1つ選ぶ」という指示にした。「もっとも大きな理由」が気になったのだ。

「いや、私は見ます」という人もいないので、議論はスムーズだったんだけど、結果は意外だった。

6グループのうち、5グループが「家にいないから」を最大の理由に挙げたのだ。あと1グループは「コンテンツがつまらないから」だ。僕は「コンテンツ」が最大の理由だと何となく思い込んでいたのである。

サンプルは少ないかもしれないけど、この結果は結構本質を捉えているようにも思う。というのも、「複数理由を挙げて議論している」からだ。そして、どのグループも「家にいない」vs.「コンテンツがつまらない」決勝戦になり、「やっぱそもそも家にいないからね~」となるのだ。

ちなみに、スマートフォンなどでテレビを見るアプリを入れたりとか、そういう意欲はないようだ。そこまで見たい感じでもない。

で、「テレビの危機」というのはよく言われるけど、実は3つくらいの側面があることに気づく。 >> 学生がテレビを見ない最大の理由は「つまらないから」ではなく…。の続きを読む



紙の新聞をやめて、電子版のみになって相当経つ。紙面よりオリジナルの記事や情報がある上に、検索・保存もどんどん使いやすいので、紙の理由がない。ひとつ困ったのは猫のトイレ掃除だけど、幸い集合住宅なので譲ってもらいどうにかなった。その頃調べて驚いたのは、「新聞紙」をアマゾンで売っていることだ。

このレビューが傑作で、「製品の価値は使用者が決する」というマーケティングの小噺に最高かもしれない。猫や犬はもちろん、使い道はいろいろあるのだ。最近だと、印刷前の白紙のものも売っている。

というわけで、掃除の時などに紙の新聞を見ていて感じるのだけれど、なんかものすごく情報密度が薄い。何でかな、と思うと本文の文字は大きく、見出しはさらに大きい。ただ、その分中身は薄い。

大きな事件のあとにコンビニなどで新聞をちらりと見ると、「こんな派手な見出しになっているのか」と驚く。一般紙の見出しはドンドン大げさになっている。

そして、紙を見ないものにとって、この見出しがなんだか馴染めない。だって、事実を伝えるのにあんなでかい文字は必要なのか?

そして、普段紙の新聞を見ないと、あの見出しが暴力的に感じられるんじゃないだろうか。自分の実感でも、コンビニの新聞棚がなんか不気味に見えてくるのだ。オリンピックや米朝会談の翌日など、「ウワ、なにが起きたんだ」という感じで、むしろ引いてしまう。

ちょっと妙な仮定になるけど、もしテレビが「大ニュースの時は大声になる」としたらどうだろうか?それは、変だと思うだろう。まさに暴力的だ。速報を出したり、L字にしたり、あるいは通常番組やCMを飛ばしたり、「大ニュース」の伝え方はいろいろだ。

ただ、紙の新聞は「文字と写真を大きくする」ことで表現している。

ニュースをインターネット、特にスマートフォンで見ている若い世代の人は、このような「大きな文字で重要性を表す」ということにそもそも馴染みがない。というか、僕のように、かつて紙の新聞を読んでいたものでさえ違和感があるのだから、全世代で見てもそうなっていくんじゃないか。

で、普段読まない者が紙の新聞を読むと、あの見出しなどは編集が勝手に騒いでいるように見えてくる。

「ほら、これを食え!」と言われてる感じで、そういうのを喜ぶ人はいないんじゃないか。

新聞の部数が減るのと反比例するように、紙の見出しは巨大化する。それって、客の減った店が大声で呼び込みしているようなもので、客は引くのが当たり前だ。

「取材/報道」という機能と組織はこれからも必要だと思うが、提供の手段としての紙の新聞は、そういった「表現形態」としても復権はしないだろう。

なんか、ふと寿司屋を連想した。ネットのニュースはいかにも回転寿司的だ。ただ、回転寿司が増えても、高級店はまたしっかりと存在するように「質の高いニュース」にカネを払う人はいるはずだ。

でも、あの「でかい見出し」では、それも難しいだろう。新聞の未来は、そうした当たり前を見直すことから始まるんじゃないだろうか。

 



多くの著名人が大病を告白し、そのプロセスを語ることも多くなった。難しいこともあるだろうけれども、意味はあると思う。

病は、孤独だ。本人はもちろん、家族にとってもそうだ。見知らぬ人のできごとでも、「そういう人がいるんだ」という事実は、力になる。それは実感としても経験がある。

そして、棋士の先崎学九段が書いた『うつ病九段』は、そうした数ある「闘病記」の中でも、とてもとても価値がある本だと感じた。

自らの経験を「客観的に記述する」ことはそもそも難しく、病であればなおさらだし、うつ病であれば想像もつかない壁があるだろう。

だから、ここには彼の経験のすべてがあると期待したわけではない。それでも、発病から快復に至る過程には静かな感動がある。

それは決して劇的なストーリーではない。ミサのような静かな宗教曲を、ジーッと聞いてるうちに、気づいたら曇り空に陽が射していた――そんな感覚になる一冊だ。

よく言われるが、うつ病になる可能性は誰にでもある。しかし、自分の中にもまだまだ大きな誤解があったんだなと思った。

うつ病は「だいたいいまだに心の病気といわれている。うつ病は完全に脳の病気なのに」と語られる。この話は、終盤になって精神科医である、実兄の言葉だ。 >> 『うつ病九段』は、すべての人に希望を届けてくれる。の続きを読む



もう1ヶ月以上も前だが、上野で行われていた藤田嗣治の展覧会に行った。

まだそれほど混んでいることもなく、ゆっくり見ることができた。年譜を追うようにした構成であり、彼の作品を見るということ以上に、彼の人生を追うような感覚になる。

一人の、それも波乱に満ちた芸術家の生涯は興味深いものがあるけれど、では、作品を見て心が動かされるかというと、それはまた別の問題だなあ、と改めて思ったりもした。

藤田嗣治の作風は、生涯を通じて大きく変化する。それは、多くの芸術家に見られることだろう。

でも、じわじわと滲むようにして変化する人もいるし、天啓を得たかのように転換点の作品を描く人もいある。そして藤田の場合は、ある時期にクルッと舞台が回るように、別の顔が出てくる。その舞台回転は何度も起きる。

藝大では黒田清輝門下らしい光を見せるし、パリへ渡ればキュビズムを難なく模し、モディリアーニをなぞる。あの乳白色はたしかに「発明」だと思うけれど、その後南米では、全く異なる光を描き、そして戦争画へと続く。

しかし、僕の心の中で、何らかの共感のようなものは湧いてこない。

もっとも、普通の人が偉大な芸術家に共感できるわけない、という考え方もあるだろう。

でも、僕はちょっと違うと思うのだ。 >> 「出来過ぎる画家」藤田嗣治を見て、『ゴッホの耳』を思い出す。の続きを読む