2018年09月アーカイブ

ネットのニュースで、ハズキルーペのCMの話が書かれていて、近々新タレントを起用するという。それも武井咲が高級クラブのママに扮するというのだから、オンエア前から突っ込みたくもなるけど、だとすればもう十分に狙いは当たっているんだろう。

で、渡辺謙と菊川怜のあのCMも見られなくなるかもしれない。じゃあ、その前にあのCMのすごさについて書いておこうと思う。

ハズキルーペのCMは前からいろいろあったようだけど、渡辺謙と菊川怜のインパクトは相当強い。そして、検索すれば「嫌い」という声が溢れている。

しかし、相応の効果があったという話は人伝に耳に入ってくるし、売上へはしっかり貢献しているんだろう。そうじゃなきゃ、次のCMは投入しないだろうし。

個人的には、あのCMは「すごい」と思う。毎日録画しているニュースの提供なので、初めて見た時は思わず巻き戻してチェックした。

渡辺謙の怒鳴り声とか、菊川怜の媚びたような視線も、あれを「好き」という感じにはなれないけれど、広告の仕事をしている人なら「あ、やられた」と思ったんじゃないか。

だって、結局「これかければ大きく見える」という認知はしっかりとれるわけで、ただのうるさい連呼CMとは違う。一方で、渡辺謙が読むシーンの本は「マクベス」の英語台本だったりして、裏地までちゃんと気を使っている。

で、「この感覚ってなんなんだろ?」と気になっていたんだけど、ふと分かった。

これは、いわゆる「生コマ」の世界に近いんじゃないか?朝のワイドショーなどの合間に、トイレタリーメーカなどがスタジオで実演している「生コマーシャル」の方法論なのだ。

ハズキルーペのCMも60秒で、15秒中心のTVCMの中で異彩を放っている。時間をしっかり活かして、2人のタレントに生コマ的をさせている感じだけど、その特徴はなにかというと

  • プレゼンテーションよりデモンストレーション

いわゆる「実演販売」もそうだけど、「これでもか!」と見せつけることが大切で、「なぜか?」というような話はそれほど必要ない。

  •  振る舞いがわざとらしい

この「わざとらしい」と言うのは、誉め言葉だ。達者な板前が実演販売をしても人は集まらないだろう。生コマでも「これは広告だ」とわかってもらうためには、わざとらしさは必須となる

  •  知的であろうとしない

生コマというのは、「わかりやすさ」が身上だ。逆に言うと「自分は知的である」と思っている人から嫌われるくらいがちょうどいいのだ。

こう考えると、ハズキルーペは広告として堂々としている。そして、この「生コマ的感覚」はweb上でもジワジワと広がっている。長尺が可能なネットメディアとも相性がいいのだろう。

そうなると、近年目につくような、「広告であることを隠したい」という流れにも疑問が出てくる。「広告は嫌われる/信用されない」という前提でいろんな技法が生み出されて、その結果怪しげな情報も増えて、いろいろな基準作りなども進んだ。

PRなどを含めて、ストレートな広告ではない方が効果を生むこともあるだろう。

でも、「これは広告である」という、送り手と受け手のフレームの共有のもとに、グイグイとベネフィットを押していっても、成果が出ることだってあるわけで、だとすればこうした「生コマ的方法」は、メディアを超えて見直されて行ってもいいんじゃないかと思っている。