7月は、豪雨に猛暑に逆走台風で、関東ではやっと「普通の夏」になった気がする。それでも、十分暑い。
こうも暑いと、動物もきついだろう。猛暑の頃、家を出た先の道の隅で、あの虫が引っ繰り返って死んでいた。最近は、アルファベット7番目の文字で表記される、あれだ。タフと言われるあれがああなのだから、相当な暑さだったということなんだろうか。
ちなみに、我が家ではもう20年ほど見ていない。「コンバット」のおかげだと思う。すくなくても、鉄筋の集合住宅では相当効果があるんじゃないだろうか。
しかし、なぜあの虫は片仮名4文字で呼ばれなくなったのか?一応名前はあるが、最近は耳にしなくなり、イニシャルになっている。
で、その理由なんだけど、それは、現代の日本社会における「禁忌(タブー)」と深く関係しているんじゃないかと、勝手に思っている。
禁忌の研究というのは、民俗学などでは大きなテーマで、「キュウリ タブー」とかで検索すると、結構出てきて、先日行われた博多の祇園山笠などが有名だ。
しかし、名前自体の禁忌とは何か?それは、「避けたい対象には直接その名を呼ばない」ということである。
いや、これは最近のあの虫についての話ではない。
学生時代にドイツ語の先生が話していたのだが、ドイツなどヨーロッパ内陸では「熊」がその対象になったという。「言うと出てくるから」のように、禁忌とされていたということだった。 >> なぜ、あの虫は”G”と呼ばれるのか?の続きを読む
なんか身の回りで、転職とか独立とか、いろいろとすごい。6月30日付けだけでいろいろあった。個人的な観察からの話なので、もちろんちゃんとしたデータじゃないんだけど、他の人に聞いても「結構動いている」という。
6月末というのは、賞与も出て、株主総会も一段落して人事・組織が動く会社もあるので、毎年人が動くけど、いよいよ「人材流動化」から「人材大戦争」になった気がする。
つまり、人が動く、というよりも企業側の危機感がものすごく高まっているんだろう。
僕の周辺だから、メディアや広告周りはたしかに多いんだけど、それだけじゃない。年齢幅も相当広くて、還暦の人も思い切って動く。
むしろ、「今どき人が動いてない会社はまずいんじゃないか?」と感じるくらいだ。
背景には人手不足とかいろいろあるんだろうけど、ちょっと違った視点で感じたことを書いておきたい。
■ 若い会社が「分厚く」なって、かつてのベンチャーが硬直してきた
ここ10年くらいに創業した会社でも、広く人を受け入れる「厚み」のようなものを感じる。だから若い人だけではなく、ある程度キャリアを重ねた人でもそうした会社に転じる。
ベンチャーとか外資とか、そういう認知スキーマすら気がついたらなくなっている感じだ。
一方で、「メガベンチャー」のように千人単位の社員がいる企業からの流出も目立つ。もはや若い会社ではなく、気がついたら「普通のオーナー企業」で経営者とその周囲が硬直化していれば、若い人にとっては「上がつかえてる」感じだし、むしろ財閥系のほうがオープンに見えることもあるみたいだ。
■ 「働き方改革」で会社の“底”が見えた >> 「人材流動化」から「人材大戦争」になってきた。の続きを読む
7月6日におこなわれた、オウム真理教に関する死刑執行の時は、ちょうどミーティング中で、昼前になってニュースを見て驚いた。
いままで見聞きしたさまざまな事件の中で、何が一番インパクトが強かったか?それは人さまざまだと思うけれど、個人的には1989年のベルリンの壁の崩壊と、1995年のオウム真理教事件が双璧だ。
どちらも「人の為したこと」であり、それまでの前提を引っ繰り返されたことが強い印象だった。
死刑制度については、いろいろ思うところがある。ただし、この7人の執行が行われた途端に、唐突に疑義を唱えたり抗議することもあまり理解しにくい。
刑法の見直しを主張して活動している人ならともかく、個別の執行自体に疑問を呈したら、司法判断の否定になる。恣意で行政が執行しなければ、それもおかしい。これは、日本人が容認してきた制度の帰結で、最終的には立法府のテーマになるだろう。
しかし、それでも今回の報道を見て、疑問が残った。そもそも、死刑はここまでショー化されていいのか。それは多くの人が思っているだろうが、なぜそうなったんだろうか。
法務省の文書を見ると、平成10年(1998年)11月から「死刑執行の当日に,死刑執行の事実及びその人数を公表」となり、平成19年(2007年)12月から「 死刑執行の当日に,執行を受けた者の氏名・生年月日,犯罪事実及 び執行場所を公表」とある。 >> 最期までオウムをショーにしたメディア。の続きを読む
ともかく、長い。というか、1000頁を超える小説ならいくらでもあるんだけど、それを一冊にしてしまうのだから、これは本ではなくオブジェを売っているようなものかもしれない。
読んでいて眠くなったら、そこに頭を載せたくなる。硬い枕が好きな人なら、十分行けるのではないだろうか。ただ、タイトル通りのお話なのでどんな夢を見るかは心配ではあるけれど。
さて、京極夏彦の書く新撰組はそのタイトル通り、殺気に満ちている。主人公は徹底して土方歳三だ。その発想は「あるだろうな」と思うんだけれど、彼は「人が殺したい」という動機だけで、武士になろうとし、仲間を糾合していく。
だから、新撰組のストーリーにある種の美しさや幻想を抱いている人にはお勧めしにくい。出て来る者たちは、やたらと「人外」、つまり人でなしだ。沖田総司などは土方以上のサイコパスで、土方の目には、その貧相な要望は「鼠のように狡猾」で、やがて「ドブネズミ」扱いだ。それなのに、沖田は猫でも犬でも人でも殺す。
芹沢鴨のひどさは、一段と強調され、山南の哀れさはさらに際立つ。
それにしても、新撰組は常に内部が活火山の底のように揺れていて、いわゆる「内ゲバ」の連続だ。本作では「滅びの美学」などという生易しいものではなく、そこには「醜い死」が積み重なるだけである。 >> 元祖サブカルチャーとしての新撰組~京極夏彦『ヒトごろし』【書評】の続きを読む