人にとっての、年齢の「節目」はどこにあるのか。
大体の人は、30とか40とかキリのいい数字を思い出すかもしれないし、十進法の呪縛みたいなものとしては、そんな感じだろうか。年男・年女とかもあるけど、まあ10歳刻みなんだろうな。
そんな中で、最近気になるのが「50歳」という節目だ。連載していた記事の関係もあるんだけど、自分自身はもうとっくに超えていて、来年には半ばとなる、
一方で、40代の人との違いも意識するんだけど、それは当人同士の違いというより「親の年の違い」が大きいんじゃないかと感じるようになった。
たとえば、固定電話やファクシミリがまだそれなりに健在だったり、現金主義だったりするのを、「電子化すればいいだろ」と思うのは僕もよくわかる。実際に、自分でそれほど使うわけではない。
ただし、80を超える自分の親世代のことを思い起こすと「そうは言ってもな」という感覚になる。パソコンや携帯も使っているようでいて、どこかに「壁」があるのだ。この辺りの感覚などは、40代の人だとちょっと違うかもしれない。
もっと、大きな差は「親を送ったかどうか」ではないだろうか。同世代と話すと、既にどちらかの親を亡くしているいる人が多い。既婚者で「それぞれの親4人が元気」ということは稀だ。僕の場合は、48歳で父を送っている。
この経験は、大きい。「次は自分の番」であることを否応なく突きつけられる。そして、残った親の老いを目の当たりにしながら、答えのない自問をする。
だから、どう変わったのか、というとよくわからない。しかし、親の年齢や今の姿、あるいは生前の記憶がどこか自分の思考に影響を与えている気もする。
そう言えば、と20代の会社員だった頃をふと思いだす。その頃、特に仕事ができるわけではないけれど、「どこかに深みのあるような先輩」がいて、打ち合わせの時なんかにふと「重みのあること」を呟いたりするのだ。
もしかしたら、彼らは既にいろいろな経験をしていたのかもしれない。ただ、自分がどのように見られているかはわからないが。
しかし、若い頃に直線的な思考の人も、50代になると変化が起きて来ると思う。目標に向かって真っすぐ走っている時に、ふと脇道を覗いてみたり、足を止めたくなる感覚とでもいうのだろうか。
会社の人事異動などで、道を決められたり減速せざるを得ないこともあるだろうけど、そういう外からの力だけではなく、「内からのブレーキ」のようなものが働く。
「そろそろ、一度立ち止まって考えてみたら」というような声だろうか。しかし、何を考えればいいかはわからないし、教えてもらえるわけではない。
ただ、より若い年齢の人とは異なる思考プロセスになるのは当たり前なんだろうな、と割り切った方が楽だろうし、そうした視点の方が求められている気もする。
「次は自分の番」を意識した50代の頭の中は、外から見るよりも少々ややこしく、かつ慌ただしいのだ。
※ちなみに50歳になって改めて感じたのは、「織田信長って人生50年とか言っていながら49歳までだったんだよな」ということで、そこを超えてしまったというのは何とも感慨だった。信長については、近年いろいろな本があるけど、これは企画もユニークでお薦めできる。