資本主義はともかく、社会学は超えた?『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』【書評】
(2018年5月12日)

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正直に言うと、読む前には「何となくありがちなサブカル読解もの」かなと少々疑いつつ、大澤真幸氏ならやっぱり面白いんじゃないかと期待しつつ読んでみた。

面白かった。

いや、そう書くとあまりにも雑かもしれないけど「軽くて、深い」話が展開されていて、一気に読んでしまうだろう。もともと、早稲田大学文化構想学部の講義をまとめたもので、2016年という『反響が大きく、話題になった作品が多かった』(『』内筆者・以下同)年に語られた内容が「底本」となっている。

まず、この講義の問題意識は学問への懐疑から始まっているようだ。

『内輪と<世界>との間の乖離を埋めるのは、本来であれば、学問の役割である』『しかし、若者たちは――というかわれわれはみな――、今日、それらの学問が教えてくれることにもうひとつピンときていない』『このとき、サブカルチャーが発揮する想像力が決定的な手がかりを与えてくれる』

そのように講義の目的を定めた筆者は、まず『対米従属の縛りを破れるか』と第一部で問いかける。素材となるのは『シン・ゴジラ』や『ウルトラマン』であり、そこに木村政彦と力道山も絡んでくる。

この辺りはまだ何となく見当もつくかもしれないが『善悪の枷から自由になれるか』という第二部では、あさま山荘やオウム真理教を振り返り、カントも引用されて『OUT』などが論じられていく。

個人的に面白かったのは、続く『資本主義の鎖を引きちぎれるか』という第三部で、『おそ松さん』を起点に、ボリシェビキからニーチェまでが登場してくるが、この辺りを書き始めるとキリがないので、読んでみてのお楽しみかな。

そして、第四部の『この世界を救済できるか』は、『君の名は。』と『この世界の片隅に』を対比しつつ、共同体や都市論をもう一度俯瞰することになる。

筆者はマイアソンの『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』(2004/岩波書店)の解説で、本書でも言及されている新海誠の『ほしのこえ』について書いている。つまり、「最近のコンテンツをネタにしてサクッ社会を論じてみました」的な類書とは異なり、社会の大きな潮流の観察を続けて来た厚みがあるので、軽い中にも改めて気づかされる深さがあるんだろうな、と感じた。

そして読後に改めて思ったのは、この「資本主義を超えるか」というタイトルのことだ。サブカルチャーの作品群は、むろん資本主義の中から生まれていることは百も承知の上で筆者はこういうタイトルにしたのだろう。

しかし、大学生を始めとする受け手はどう捉えるのか。「資本主義をどう泳ぐか」ということに関心を持つ人にとって、この本はむしろ「泳ぎ方の手引き」のように読めるかもしれない。

そして、「資本主義を超えるか」どうかは無論曖昧なままではあるのだけれど、「サブカルの想像力は社会学を超えたか」と言われると、「ああ、そうかもしれないな」と思ってしまう。

そう言う意味で、この講義における筆者の狙いは達成されたのかもしれない。

そういえば、かつての広告会社のクリエイティブやマーケティングの現場では、こんな話をよくしていたな、と懐かしい気分にもなった。で、その業界のいまの第一線の人はこの本をどう読むんだろうか?というあたりもちょっと気になる。