2018年05月アーカイブ

銀行員の転職希望者が急増しているという。まあ、あれだけ急激な人員削減策を打ち出されれば、「売り手市場のいまのうちに」と考える人が多いのも自然だろう。そもそも、傍から見ていても「どうしてそんなに?」と思うほどの大量採用をしてきたわけだけれど、疑問に思う人はいなかったのだろうか?

では、いまの日本の銀行員が「よし、転職するぞ」と考えて果たしてどうなるのか?転職した先でキャリアを拓けるのか?

「優秀な人はどこへ行っても大丈夫」と言ってしまえばそれっきりだけど、銀行員の人は他の業界にはない「自分たちの癖」を知っておいた方がいいと思う。

いろいろな業界の人と仕事をしてきた感じだのだけれど、銀行員の人々の特徴として「疑うことを知らない」という人が多いと思うのだ。
銀行員は官僚型のピラミッド組織であるとは、よく言われる。しかし、公務員のような人たちは、自分たちが「官僚的である」ことを自覚した上で行動していると思う。「まあ自分たちは官僚だから」と諦める人もいるが、「官僚的であること超えよう」という人もそれなりにいる。

ところが、銀行員の人は官僚的であることに無自覚なんだなぁと思うことがある。日本の大手金融機関は、徹底的に、「型から入る」のだけれど、「型より出でる」ことができる人は少ない。 >> 「銀行員の転職」が成功するための1つの条件。の続きを読む



正直に言うと、読む前には「何となくありがちなサブカル読解もの」かなと少々疑いつつ、大澤真幸氏ならやっぱり面白いんじゃないかと期待しつつ読んでみた。

面白かった。

いや、そう書くとあまりにも雑かもしれないけど「軽くて、深い」話が展開されていて、一気に読んでしまうだろう。もともと、早稲田大学文化構想学部の講義をまとめたもので、2016年という『反響が大きく、話題になった作品が多かった』(『』内筆者・以下同)年に語られた内容が「底本」となっている。

まず、この講義の問題意識は学問への懐疑から始まっているようだ。

『内輪と<世界>との間の乖離を埋めるのは、本来であれば、学問の役割である』『しかし、若者たちは――というかわれわれはみな――、今日、それらの学問が教えてくれることにもうひとつピンときていない』『このとき、サブカルチャーが発揮する想像力が決定的な手がかりを与えてくれる』

そのように講義の目的を定めた筆者は、まず『対米従属の縛りを破れるか』と第一部で問いかける。素材となるのは『シン・ゴジラ』や『ウルトラマン』であり、そこに木村政彦と力道山も絡んでくる。

この辺りはまだ何となく見当もつくかもしれないが『善悪の枷から自由になれるか』という第二部では、あさま山荘やオウム真理教を振り返り、カントも引用されて『OUT』などが論じられていく。

個人的に面白かったのは、続く『資本主義の鎖を引きちぎれるか』という第三部で、『おそ松さん』を起点に、ボリシェビキからニーチェまでが登場してくるが、この辺りを書き始めるとキリがないので、読んでみてのお楽しみかな。

そして、第四部の『この世界を救済できるか』は、『君の名は。』と『この世界の片隅に』を対比しつつ、共同体や都市論をもう一度俯瞰することになる。 >> 資本主義はともかく、社会学は超えた?『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』【書評】の続きを読む



最近たまたま「会社を辞める人」の話を聞くことが多くて、なんとなく40歳前後だ。一方で、30歳前後の人はそういう姿を見て「やっぱりそういうものなのかなぁ」と思うらしい。

そう言うわけで、若い人からは「山本さんは何歳の時に辞めたんですか?」と改めて聞かれることも多いのだけど、これは忘れるわけもなく40歳の時だ。だいたい「ああ、やっぱり」という反応になる。適齢期に思われるのだろうか。

会社を辞めて独立する。その適齢期がいつなのかは、いろいろな説があって正解があるわけではない。

ただ、自分の経験からいうと「40歳」は悪くなかったと思う。「良かった」と言い切れないのは、他の年齢と比較できないからだけど、ちょっと理由を考えてみた。

まあ、いろんな意味で「人生の折り返し点」であり、いわゆる「人生の正午」だし、なんとなくキリもいい。起業するならもっと若くてもいいし、その方が有利なことも多いだろうが「独立」となると、ある程度個人のスキルや信頼も必要だ。

一方、50歳近くなると人によっては体力的な課題も出て来るだろう。

ただ、それ以外にも40歳辺りが「適齢期」だと思う理由がある。特に、僕のように企業に対してコンサルティング的にお付き合いする場合は、いいんじゃないだろうか。3つほど挙げてみよう。

■ 若くもありベテランでもある

会社員の現場は、だいたい20歳から60歳くらいの人で構成されている。つまり40歳と言うのは真ん中だ。仕事の発注権限を持つ年代の人からは「若い発想」が期待される一方で、トレーニングなどでは「先生」のポジションになれる。

つまり、企業を相手に仕事をするときに上と下の双方から「お願いします」と言われやすいのだ。場合によっては、若手と役員のブリッジ役になることもできる。

■ クライアントと一緒にキャリアを重ねられる

ということは、クライアントの組織の真ん中あたりに「疑似的に参加する」ことができる。そして、上の人が役員になったり、若い人がマネジメントに昇格するプロセスに伴走することができる。これは、体験してみないとわかりにくいかもしれないが、40歳というのは組織と相性がいいと思う。

■ もう一度「その先のキャリア」を考えられる

これは最近感じるのだけれど、40歳までは大学を出てから18年会社勤めで、そこから同じだけフリーランスをしても60歳までまだ時間がある。労働力人口が減少していく流れから考えると、ここでもう一度「次のこと」にトライすることも可能なのではないか。

一度会社を辞めて、それまでのスキルや経験で働いてみる。40歳スタートであれば「3つ目のステージ」を想定することもできるだろう。

というわけで、「会社を辞めて独立するなら40歳」というのは、有力な選択肢なのかもしれない。
※独立する場合はもちろん年齢だけではなく「このくらいのキャリアを積んだら」という目安があると思うが、それは「仕事でひと皮むける」というような経験があった方がいいと思う。「ひと皮むける」がどういうことなか?ということについては、まさにそういうタイトルの本があって、これはとても良くできたケース集だ。もっとも、ここでは「ひと皮むけていいマネージャーになってね」という趣旨で、「そろそろ辞めれば?」というわけではないのだけど。

 



本を読みのは好きだが、特に記録もせずにダラダラと読んでいた。「年に何冊くらい読むのか?」と言われても答えに窮していたのだけれど、じゃあ記録を取ろうかと思い、少し前から読み終わった日付とタイトル、著者名だけはエクセルに記録してみた。

その後になって、簡単な感想をSNSにメモして公開するようになると、「それだけの量をどうやって読むのか」と聞かれることも多い。読むのは早い方かもしれないが、別に速読はしていないので、普通の会社員よりは時間管理が自由なのが最大の理由かもしれない。

ただ、思いついたことをメモしておこうと思う。

■ 読むスピードの目安を決める

これは結構昔からやっていて、僕の場合「100頁1時間」が標準である。これより早い場合も遅い場合もあるけれど、ある程度ペースを気にしながら「ちょっと遅めだから気合入れるか」くらいの調整をしている

■ まとまった時間をとる

これが1番重要で、かつ1番難しいかもしれない。1時間あればいいのだけど、30分でもどうにかなるかもしれない。時間がコマ切れになるほど、そうした隙間時間は「スマートフォン」という名の虫が、バキバキと食っていく。多忙な人ならば、1週間単位で「読める日と読める時間」を予定しておくのがいいだろう。僕も忙しい時はそうしている。

■ 移動時間を見直す

少し早めに出て、各駅停車を利用して座って読む。座って読めないことを予期して、文庫本かkindleで読む本を決めておく。僕は複数の本を並行して読むので、「片手でも読める本」は確保している。また、最初に読む時はあらかじめ家で全体の10%を読んでから外で読む。いきなり電車でも読むと、入り込む前に到着したりするし。

■ 音を断つあるいは選ぶ

音楽を聞きながら読むことは多いし、小説とかだとBGMを選ぶのも楽しいけれど、、日本語の曲は避けるし、テレビはもちろんダメだと思う。人によっては大丈夫な人もいるらしいけど。あと、耳栓は持ち歩いていて電車で使うこともある。

■ 電源を切る

僕はスマートフォンを持っていない、というか一時期持っていたけれど、タブレットにした。別に不自由はないが、本を読む時は見ないようにしている。歴史のこととかついつい調べたくなり、いっぺん見ると延々とウィキペディアを眺めてしまったりする。
寝る前に読むこともあるが、その時は紙の本だ。寝室に電波の出るものは持ち込まないので。
こう書くと大したことは何もしてないけど、結局は「本読むぞ」という気合なのか。まったく説明になってないが。

 

ちなみに、本を読むことに力を入れるようになったのは、一時期スマートフォンを持っていたことと関係がある。あまりにも便利だが断片的な情報しか見なくなった時に、「まとまった何か」を読むことが、とても大切なことのように感じたからだ。

それは、仕事などに「役立つ」ということもあるけれど、それ以上になにかとても大切なことであり、「生きていくうえで」というと大げさで白々しいけど、きっとそういうことに関係しているのだろう。

断片化された情報は人にとって「命令」に過ぎないが、「まとまった何か」の前では、自由に考えて想像することができる。それは、旅のようであり、旅以上の体験だと思う。

 

※ちなみに「読書術」の本はたくさんあるけど、ああいう本を読んでる本好きな人に会ったことはない。ショーペンハウアーの『読書について』の新訳はお薦めだけど、むろん読書術の話ではない。とても面白いんだけど、しかし、この人は生きてる間は嫌われたんだろうなあ。

 



この連休の始まった頃、長野県では民泊についての報道が注目されていた。全国ニュースでは、かのメンバーの帰趨でそれどころじゃないのかもしれないけれど、この話は日本全国のすべての地域に影響してくる話だと思う。

民泊の全面規制を求めていた軽井沢町に大して、長野県は一定の条件ながら要求を認めたのだ。簡単に言うと

◆ すべてのエリアが行楽期間(5月および7~9月)は全町で規制

◆ 他の期間でも9割がたのエリアでは月曜から金曜まで規制

当初要求していた「全面規制」ではないものの、軽井沢としては受け入れるようだけど、それはそうだろう。実質的には「行楽期の4カ月以外の土日」しか、民泊は困難とになるからだ。

さて、この軽井沢町の方針は妙手なのか、悪手なのか?

町の成り立ちや現況を考えると、現時点で全面解禁はたしかに難しいかもしれない。ただし、将来にわたって規制を続けるとかえって衰退につながると思っている。段階的にオープンにしていくビジョンが軽井沢には必要ではないか。

最大の問題は、来訪者の高齢化だ。ピーク時のアウトレットなどを見れば、幅広い客層がいるように見えるかもしれないが、全体として高齢化していてることは町の人が一番感じているだろう。

地元の人と話すと、立派な別荘がジワジワと空き家化していることを心配している人も多い。ここ最近の観光客の増加は、訪日外国人の影響が大きいが、若い日本人にとって「軽井沢」は、もはやそれほど引力のある観光地ではないと思う。 >> 軽井沢の民泊規制は、妙手か悪手か?の続きを読む