先週の木曜にアレクサに挨拶したら「今日はもっとも卒業式が多い日のようです」とか言って「仰げば尊し」を歌いたがっているので、聞いてあげた。卒業式にまつわる音楽も、相当多様化していて、アレクサに「旅立ちの日に」をリクエストしたら川嶋あいだった。
そうかあの合唱曲をSMAPがNTTのCMで歌ったのがもう10年以上前で、十分に古典なんだよな。
あの曲を聴いて思ったのは、「卒業式のツボ」をついてるなあということだった。メロディーラインから、ハーモニーに至るまで「卒業シーズンの曲」の王道だ。クラシックでいえば、パッヘルベルのカノンから、ブルックナーの5番のアダージョまで「卒業式っぽい」メロディーはたくさんあるわけで、でも別に作曲家は日本の卒業式なんか知るわけじゃない。
でも、日本人の心の中に「卒業式っぽいメロディー」はちゃんと存在していると思う。
基本的は長調だと思うけど、「明るい/悲しい」というような単純なものじゃないし、「おめでとう」と言われるからといって、おめでたい音楽ではない。
あえて言葉にすると「切なさ」とでもいうんだろうか。式で歌われる合唱曲から、卒業をテーマにしたらポピュラーミュージックまで、その辺りが「卒業シーズンの曲」の共通点なんだと思う。
今年も3月に入ってから、ラジオなどで「卒業シーズンの曲」を聴く機会が多かった。考えてみると、この「卒業シーズンの気分」というのは、ちょっと大げさだけど戦後の日本が生んだ「誰もが共有できる文化」の最たるもんじゃないだろうか。
前提にあるのは、男女平等の義務教育だ。そもそも、そういう教育制度がしっかりしていないと、卒業式は一部の人のものに過ぎない。
その上、3月というのが効いている。世界の主流と言われる9月入学だと、6月頃が卒業になるという。
もし日本でもそうだったとしたら、こんなに卒業シーズンの曲はなかったんじゃないか。あの切なさと3月の気候は密接に結びついているように思うのだ。卒業からみの歌詞を見ればわかるけど、あれは春だから成り立ってるわけで、梅雨じゃどうしようもないんじゃないか。
そして、やがて桜の季節だ。この日本人共通の記憶がある限り、どんな合理的な理由があっても「9月入学」は無理なんじゃないかとさえ思ったりする。
そして、1つ不思議なことがあるんだけど、卒業をテーマにした音楽は山ほどある日本で、小説があまりない気がする。アマゾンで“卒業”と検索すると音楽ばかりだ。ないことはないけど、音楽のように卒業シーズンの定番小説というのは、あまりピンと来ない。
ちょっと話は変わるけれど、石川啄木の『一握の砂』の「煙」という章がある。盛岡の学生時代を回想した歌が並び、望郷の思いが滲みでる。いわば「卒業後」の視点ではあるけれど、どこか3月の気分に通じる気もする。
ただ、そこは啄木だ。一筋縄ではいかない。たとえばこんな一首。
友はみな或日四方に散り行きぬ
その後八年
名揚げしもなし
また、もう少し香りのする歌もある
わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日
3月は、日本の大人にとって回想の季節なのかもしれない。