「格差」という言葉が社会的なテーマになったのは今世紀に入ってからだろう。いろんなデータを見ると、実際は90年代初頭からジワジワ広がってきたといわれる。ただし、小泉内閣の「新自由主義」と絡めて、格差が拡大したという印象が強いようだ。
そして、「自己責任論」が広がっていったと思われている。
ただ、その辺りについてちゃんと検証したわけではない。
NHKスペシャル取材班の『健康格差』という本も、その辺りの「常識の壁」にぶち当たっていると思う。健康格差が、個々人の問題ではなく社会全体の問題であることは確かだと思うけれど、その背景にある心理分析は表面的で、むしろミスリードしてしまう気さえする。
この本には番組の採録がある。健康は自己責任か?いや、誰だって弱者になるのではないか。そういう宇野常寛氏に対して、70代の男性が異を唱える。自分は不摂生をやめたんだし「強い意志を持てば自己管理できる」という。
それに対して、宇野氏が「国家や社会っていうのは、サイコロ振って変な目が出ても、ちゃんと生きていけるためにあると思う」と反論した。
この言葉に、NHKの神原一光氏は「心に強く残った」と書いている。
ところが、この「サイコロ」の比喩はそもそもおかしい。たしかにいくら努力しても、健康を崩すことはある。ただし、サイコロのようにまったくコントロールできないわけではない。
その意味で、先の男性の言葉に対する反論としては半端だろう。このサイコロの比喩では、「健康格差を解消するために助け合う」というロジックにモヤモヤしてしまう自己責任論者を説得できるわけがない。
それよりも、平野啓一郎「国が成人病を『生活習慣病』とした」ことが、一つの問題ではないかと言っている。この言葉の変化はとても重要だし、これが「自己責任」という発想を強めたともいえるだろう。
というわけで、この本は「自己責任論」には、否定的な文脈で進んでいく。ただ、気になるのは「昔の日本人はそうではなかった」という発想だ。
日本人はそもそも助けあっていたのに、近年変質した。それは格差の拡大で社会的摩擦が強まったからだ。そういうNHK取材班の質問に、ハーバード大学のイチロー・カワチ氏も同調する。
「『お互いさま』とか『情けは人のためならず』とか『向こう三軒両隣』といった日本特有の表現」が「絆の証」だとカワチ氏は言う。
何となく説得力があるようだけれど、これもまた疑問が残る。諺に残っている言葉が本当であれば「人を見たら泥棒と思え」はどうなるのか。まあ、それは単なる突込みだけど、「そもそも日本人は助け合う」というのも、最近の「日本はすごい」妄想だろう。
そんなわけで、このNHKスペシャル取材班の本は「取材」自体はともかく、「誰の責任か」という点については、妙なパッチワークのままで終わっていると思う。
では、このような「自己責任論」の正体はなんなんだろう。それは、最近になって噴出してきたんだろうか。
この辺りについては、続きを明日書きたいと思う。