2018年は平成30年だけれども、これは来年には「予定された終了」となる。そして「どこかの時点で次の元号が発表されて、それを待つ」という、日本人にとっては初めての体験をするわけだ。
ある報道によると、新元号の漢字は一文字の上限を15画として「国民の元号離れを防ぐ」という。何かが変だとは思うけれど、もうしょうがないのか。それにしても、最近の元号を見ても、明治の前の「慶応」の慶の字が15画。何度も書いた経験がある身からすると、あれでも十分面倒だと思う。
しかし、「周年」というのはメディアが大好きだ。昨年の年賀状のCMも平成回顧モードだったけれど、そもそもそれに共感できるのは一定の年齢以上ということになる。先帝の崩御と平成への改元を「社会的事件」として記憶しているのは、せいぜい当時10歳くらいから上だろう。つまり、いまの40歳以上ということではなういか。
ただでさえ若い人が年賀状を書かないのに、平成回顧をしてもそれは中年以上に受けるだけだと思うけど、年明けからオールドメディアは早くも回顧モードだ。
そして、さらに明治150年というさらに昔のことが引っ張り出されている。
高齢化社会というのは「社会全体の記憶が増大して、未来への見通しが縮小する」といった人がいるけれど、まさにそうなんだろう。それなりの資産を持っている人は高齢者に偏っているが、見通せる時間は少ない。
しかも、新しいことへの受容性は低下して不安が先に立つ。そしていまのマスメディアの上客は高齢者だ。だから何かというと「怖い」と不安を煽った方が受けるのだろう。それが、停滞感の一因なのではないか。
結果的に、高齢者に限らず新しいことへの受容性は低下している気がする。先般書いた「キャッシュレスへの否定」も、調査を見ると若い人の方が多いくらいだ。
年末年始にひたすら「みどりの窓口」にに並ぶ人を見ていても、そう思う。
その一方で、未来を語る話を知りたければ、本を読んでいくしかないのだろう。しかも、その多くは海外からだ。この『プロフェッショナルの未来』は、「AI、IoT時代に専門家が生き残る方法」というサブタイトルだけれど、これまで「なくならない仕事」と思われていた一部のプロへの鋭い警鐘になっている。
医療、教育、宗教、ジャーナリズムなどの現状を検証した上で、来るべき未来像についての選択肢を著者は提示する。
「実用的専門知識が解放される未来」と「囲い込まれる未来」。もちろんこの選択肢が単純化されていることを著者も認めているけれど、興味深いのはそこに至る議論だ。
仕事のあるべき姿を歴史的に検証するとともに、技術の可能性についても見通すことのできる一冊である。
30年とか、150年とか、メディアの回顧モードに染まらないように、いろいろと勉強していくことを今年の抱負にしたい。