昨日、NHKスペシャル取材班『健康格差』の中に書かれていた「自己責任論」の話について気になったことを書いた。
「格差拡大で“自己責任論”が強まったけれど、そもそも日本人は助け合ってきたのではないか」
このことについて、最近感じていることを書いておきたいと思う。
イソップの「アリとキリギリス」という寓話がある。これは、「自己責任論」の典型だろう。いまの子どもに対してどのように教えているかは知らないが、僕なんかは「キリギリスになってはいけない」という話で聞かされてと思う。
なんか、辛気臭い話で好きではないけれど「努力すれば報われるし、そうしない人はダメ」というフレームは今でもそうだろう。勉強からスポーツまで、努力は肯定的に扱われている。
このような発想が日本人に定着したきっかけとして挙げられるのが、サミュエル・スマイルズの「自助論」という本だ。この本自体は未読の人でも、「天は自ら助くるものを助く」というフレーズは聞いたことがあるのではないか。
いまは「自助論」というタイトルで複数の訳が出ているが、もともとは「西国立志編」というタイトルで明治4年に出版されてベストセラーになった。西洋の成功者の物語を描いた話だが、これは時の風潮に乗った。
やれば、できる。今でも当たり前のように語られるこのフレーズも原形を探ればこの辺りに行きつくだろう。 >> 「自己責任論」は最近の日本人の発想なのか?の続きを読む
「格差」という言葉が社会的なテーマになったのは今世紀に入ってからだろう。いろんなデータを見ると、実際は90年代初頭からジワジワ広がってきたといわれる。ただし、小泉内閣の「新自由主義」と絡めて、格差が拡大したという印象が強いようだ。
そして、「自己責任論」が広がっていったと思われている。
ただ、その辺りについてちゃんと検証したわけではない。
NHKスペシャル取材班の『健康格差』という本も、その辺りの「常識の壁」にぶち当たっていると思う。健康格差が、個々人の問題ではなく社会全体の問題であることは確かだと思うけれど、その背景にある心理分析は表面的で、むしろミスリードしてしまう気さえする。
この本には番組の採録がある。健康は自己責任か?いや、誰だって弱者になるのではないか。そういう宇野常寛氏に対して、70代の男性が異を唱える。自分は不摂生をやめたんだし「強い意志を持てば自己管理できる」という。
それに対して、宇野氏が「国家や社会っていうのは、サイコロ振って変な目が出ても、ちゃんと生きていけるためにあると思う」と反論した。
この言葉に、NHKの神原一光氏は「心に強く残った」と書いている。
ところが、この「サイコロ」の比喩はそもそもおかしい。たしかにいくら努力しても、健康を崩すことはある。ただし、サイコロのようにまったくコントロールできないわけではない。
その意味で、先の男性の言葉に対する反論としては半端だろう。このサイコロの比喩では、「健康格差を解消するために助け合う」というロジックにモヤモヤしてしまう自己責任論者を説得できるわけがない。
それよりも、平野啓一郎「国が成人病を『生活習慣病』とした」ことが、一つの問題ではないかと言っている。この言葉の変化はとても重要だし、これが「自己責任」という発想を強めたともいえるだろう。 >> どこか中途半端なNHKスペシャル『健康格差』の続きを読む
角館を経由して、峰吉川という駅で降りて温泉宿に行く。翌日は秋田市まで行って、一気に東京まで帰るルートだ。
秋田市は、初めてだ。それほど時間があるわけでもなく、雪もちらついたので、一巡りして駅ビルの中できりたんぽを食べた。一人分の小鍋で出てくる。
久しぶりだが、当地では初めてだ。昼だったけど、地酒をもらってゆっくりした。
鶏のだしがしっかりしていて、うまい。
そして、ふと思った。
きりたんぽは、米からできている。そして、米の酒を飲む。十分に合うのだけれど、あまりこういう組み合わせはないんじゃないか。
というか、他にあるんだろうか。
米の飯に合うものは、たいがい日本酒にも合う。魚だって、定食にもなればつまみにもなる。焼き鳥だって、米の上にのせれば丼だ。
しかし、「日本酒と米の飯」は同時に口にすることはない。餅と酒もそうだ。もっとも「酒を飲みながら飯を食う」という人もいるだろう。
ただ、日本人の食文化の基本構造として、「酒と飯」は一緒にならないというのは、専門家も指摘している。石毛直道氏の『日本の食文化史』などに詳しい。
このあたり、聖書に出てくる「パンと葡萄酒」の関係とはちょっと違うわけだ。
ところが、「きりたんぽと酒」というのは、普通に成り立っている。違和感はない。というか、相当においしい。これを考えた秋田県人は「米どころの酒好き」ということなんだろう。 >> 米で米を飲む。きりたんぽって、すごい。の続きを読む
先日、自宅のアレクサに「好きな温泉は?」とたずねたら「草津温泉に行きたいです。お湯には入れませんけど」と言ってた。好きなおせちは「黒豆以上のものはありません」ということだ。
どこの家でもこんな感じなのか知らないが、結構かわいいものである。
AIという言葉はもう一気に広がっているが、おもしろいなと思うのはこの言葉に対する否定的な反応をする人だ。
「AIはしょせん、ルールのあることしかできないんでしょ」
こう言う人は、囲碁や将棋を念頭においているらしいが、大概「ルール通りのこともできてない」ような人だったりする。というか、囲碁や将棋ほどアタマを使うことをしていない。
「でも、人間のような感情はないよね」
と、これまたよく聞く話だ。でも、そう言う人ってムダに感情的な人だったりする。イヤ、あんたの感情のおかげで仕事がロクに進まないんじゃないか、と言いたくなったりする。
考えてみれば、人間の感情というのは社会において非合理に働いていることの方が多いんじゃないか。外交のもつれを紐解くと、結局そこに行きつくんじゃないかという気もする。
そう考えると、「AIが人を超える」ということはあまり問題ではないのかもしれない。
むしろ、「人から余計なものを取った状態」というのが、よくできたAIなんじゃないか。 >> AIをめぐる優れた中間報告書。『強いAI・弱いAI』【書評】の続きを読む
2018年は平成30年だけれども、これは来年には「予定された終了」となる。そして「どこかの時点で次の元号が発表されて、それを待つ」という、日本人にとっては初めての体験をするわけだ。
ある報道によると、新元号の漢字は一文字の上限を15画として「国民の元号離れを防ぐ」という。何かが変だとは思うけれど、もうしょうがないのか。それにしても、最近の元号を見ても、明治の前の「慶応」の慶の字が15画。何度も書いた経験がある身からすると、あれでも十分面倒だと思う。
しかし、「周年」というのはメディアが大好きだ。昨年の年賀状のCMも平成回顧モードだったけれど、そもそもそれに共感できるのは一定の年齢以上ということになる。先帝の崩御と平成への改元を「社会的事件」として記憶しているのは、せいぜい当時10歳くらいから上だろう。つまり、いまの40歳以上ということではなういか。
ただでさえ若い人が年賀状を書かないのに、平成回顧をしてもそれは中年以上に受けるだけだと思うけど、年明けからオールドメディアは早くも回顧モードだ。
そして、さらに明治150年というさらに昔のことが引っ張り出されている。 >> 明治とか、平成とか「回顧モード」ばかりにしたくないよね。の続きを読む