そして、不満の多い人は、自分を不幸だと自覚するだろう。それを口に出せば、聞いている人は幸福になれない。
そして、人が知らず知らずのうちに離れていくので、不幸は増幅される。
当たり前のことのようだけれど、クリスマスが近づくと、毎年のようにそんなことを思う。
クリスマス、あるいは日本の年末年始は、ある意味で「きつい」季節でもある。めでたくない人にとっても、社会が「おめでたさ」を強要する。ある意味で「喪中」というのは、賢い発想かもしれないが、クリスマスにはそれがない。
しかし、そこには「仕掛け」のようなものがある。それは、自分の境遇に関わらず、クリスマスを迎えることに「感謝する」ということだ。唐突かもしれないが、この時期に礼拝に行けばすぐにわかる。
クリスマスは、キリストの生誕を祝い、神に感謝する。その気持ちにおいて、人と人の間に隔たりはない。助け合いなどは、ごく自然なこととなるわけだ。
ところが、日本のクリスマスは「よくわからないけど何かしなけりゃ」という日だ。「何がめでたい」と思う人にとってはたしかにきつい。
だから、日頃から不満を持つ人にとっては、不幸感はさらに高まるだろう。
でも、クリスマスに限らず、「不満の多い人」というのは、感謝の方法を知らないんだなぁ、と思うことがある。恩知らず、というのではない。きっと、そういう人も、他者に対しては「ありがとう」と言うだろう。
ところが、「いろいろあったけど、きょう一日を無事に終えたことに感謝する」という発想になりにくいようだ。
この場合の、感謝する対象は、例えば神であり、あるいは「神のようなもの」だろう。つまり自分ではどうしようもない。見えない力である。
クリスチャンは、そのようにして「感謝」という言葉を使う。教会で牧師が「来ていただいて感謝です」という言葉を発する時、それは相手とともに神にも向けられている。こういう「感謝です」という言い方を一般的にはあまり言わないようだけど、思いつくところだとジョン・カビラもよく使う。彼もクリスチャンだろう。
だからキリスト教がいい、というわけではない。僕も教徒ではない。でも、無神論者でも「神のような何かに感謝する」という気持ちを持った方が、相対的に不満を減らせるし、不幸感も少なくなるんじゃないか。
別に宗教を持ち出すまでもなく、そうした「何かへの感謝」を持っている人は、とても恵まれているわけじゃなくても、どこか幸福なので人が寄って来る。
このあたりの人の心理を巧みに描いた傑作が、ディケンズの「クリスマス・キャロル」だ。2年前の夏に再読して、こちらに書評を書いてみた。キリスト教世界ならではの話だけれど、「見えない何か」に感謝する気持ちがあれば誰にでも共感できる小説だと思う。