新入社員が職場に行って戸惑うことの一つに、「なぜそのようなやり方で仕事をするのか分からない」という問題がある。
この原因は2通りあって、「不合理な方法が慣習となっているためにまともな新人が疑問を抱く」というケースと、「単に新人の理解力が低い」という場合がある。で、後者の場合は、彼らが賢くなってもらうのを待つしかないが、問題は前者のケースなんだな。
職場というのは長い間に、どうでもいいような仕事の習慣が雪だるまのようになっている。雪だるまなら、まあ可愛いし放っとけば溶けるからまだいい。なんかもっと、ドロッとして硬化したような成分のような感じの「何か」だ。
新入社員というのは、結構純粋な嗅覚を持っている。だから、彼らの疑問は結構正しい。そして、時には「なぜですか?」と質問する。
こういう時に、ちゃんと理由があれば答えられる。新人から見て不合理なことにも、ちゃんと背景があれば「聞いて納得」ということになる。
一方で、「なぜですか?」は痛いところを突くこともある。そうなると、「いちいち聞くな」「いいから言った通りにやれ」ということになる。何かダメな部活のようだが、それと同じくらいダメな職場も多い。
そんなことを思ったのも、青山文平の『沼尻新田』という小説を読んだ時に、おもしろい一説があったからだ。江戸時代後期を舞台にした小説だが、藩の厳しい財政事情の中で「藩校」を出た若侍と旧来の武士との対立を描く場面が気になったのだ。
そして、こんな文章がある。ちなみに藩校の名は「究理館」という
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藩校出が嫌われる所以は、そこにさかのぼる。「究理」を実現するためには、「なぜ」を積み重ねなければならない。が、武威の世界において「なぜ」は禁句だ。戦場での上からの命令に、「なぜ」と返したら戦にならない。その習いが、戦国が終わって百七十余年が経った今日をも支配する。武威と「なぜ」とは、すこぶる折り合いがわるい。
そうであったか。これって、会社でもありそうな話だ。「藩校出」は、MBAホルダーかもしれないし、そこまでいかなくても勉強してきた社員のような感じだ。
一方で、「武威の世界」は、「現場」と読み替えてもいいだろう。現場で、いちいち「なぜ」と言っていたら仕事にならない。
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アレ?それって、80年代までの話じゃないか。そうか、「戦国が終わって」を「高度成長が終わって」と読み替えればよくわかる。年数はともかく、いまだ過去の呪縛に縛られた「過剰な現場主義」を信奉する人はたくさんいて、下手をすると経営者になっちゃうこともあるのだ。
でも、「なぜ」を疎んじる会社はダメになる。しかし、ちょっと景気が良くなると思考停止の「なぜ嫌い」がどういわけか増えてきて、そこに多くの日本企業が変われない原因があるんだろう。
「なぜ」を大切にできるかどうかは、その組織の未来を占うのだと思う。
この『沼尻新田』は、『遠縁の女』(文藝春秋)に収められており、他の二篇も秀逸だ。ただ、どうしてこういう表紙にしたのか。作品の暗喩かと思ったが、そうとも思えない。この作者の持つ「キレ」が伝わって来ないし、不思議な装丁だ。なお、同じ作者の『半席』も以前に読んだが、ミステリアスな味わいのある秀作だ。こちらは、装丁もシュッとしてる。